第三十六話 沖田香波 (11)
いる――見ている。あの角から、あの突き当たりから。微動だにせず、こちらを睨んでいる。
誰も彼らの存在に気付いていない。見えているのはおそらく、自分だけなのだろう。
樹は頭から血を流し、曜子は全身を爛れさせ、坂野教諭は圧し潰された体を引き摺って――昼夜問わず、香波の前にそのおぞましい姿を見せた。
眠ってなどいない。自分は断じて眠りに落ちていない――それなのに彼らはふとしたときに視界に現れ、香波の日常を脅かす。
ストーカーだけでも充分に参っていた香波は、とうとう学校を休むようになってしまった。これまでの皆勤が台無しになったことを惜しむ余裕も、今はない。
食事も睡眠もとらず一日中、自室にひきこもった。娘の異変を気にかけた両親の声も、香波の耳には入らない。
ひとたび外界に意識がいってしまうと、彼らの姿が――『こっちにきて』という声が聞こえてきそうで、部屋のカーテンを閉め切り、ベッドの掛け布団を頭から被り、両手で耳を塞いで怯え、震える毎日だった。
「やめて……放っておいて……」
そう懇願する声は震えて言葉にならない。だが言葉になったからといって、それがきき入れられる保証はどこにもない。
視覚も聴覚も遮断し、携帯の電源も切り、香波は心を閉ざす。
何も見たくない――何も聞きたくない――何も知りたくない。
精神への多大な負荷は徐々に、それでいて確実に、香波の理性を蝕んだ結果、彼女を自暴自棄に陥れていた。
何も考えたくない――何もしたくたない――何もかもどうでもいい。
ストーカーの脅威から――樹と曜子と坂野教諭の恐怖から逃れるため、彼らを意識の外に追いやるため、香波は更に自身の内へ内へとこもる。
嫌だ嫌だ。もう嫌だ――こんなにも苦しいのなら、いっそのこと――
――こっちに、きて……。
その言葉が頭に、心に響き――
――こっちにきて……こっち……。
抗う気力も体力もない香波の内に、その一言一言が染み込んでいく――
――こっちにきて、こっちにきて……。
香波は目を開いた。耳から両手を外す。
「……こっち?」
かさかさに渇いた唇で呟く。
「こっちって……どこに行けばいいの?」
きこえる声に香波は、そう応じていた。




