第三十五話 小畑愛 (7)
多分、夢でも見ていたのだろう――そう、夢だ。真面目に悩むことすら馬鹿らしいほどの、取るに足らない夢だ。
これまでの人生で、一度たりとも疑いを抱かなかった常識を守るのなら、早々にそう結論付けてしまうべきであることくらいは、いくら自分でも分かっている。そうでないならこちらの頭がどうかしてしまったということになる。
やはり、階段から落ちたとき、頭がどうかしてしまったのではないだろうか――小畑愛はそうも思う。自分の担当医はそれをつい見逃してまったというのは、考えられないだろうか?
理由の適当なこじつけ――他人への責任転嫁――しようとすれば、いくらでもできる。だがそのどれもが検討違いもはなはだしいこともまた、愛は充分に承知していた。
いや、承知しているからこそ、そうして自身を欺くことで、心の均衡を保とうとしているのかも知れない。
植草樹に面会した際、首にできた手形は翌日の朝には消えていた。だがこの身に起きたことは、しっかりと愛の記憶に焼きついて離れなかった。
以降――愛は毎晩、嫌な夢を見るようになった。
夢の内容は端的に、真夜中の校舎内で少女の首吊り死体にひたすら追いかけ回される――というものだった。理由も何も分からない、夢の中らしいといえばらしい、実に不条理な悪夢だった。
寝起きはひどいものだった。全身はまるで実際に学校中を逃げ回ったかのように汗だくで、動悸や息切れもして疲労も激しく、学校に行くのが辛くなるほどだ。両脚が筋肉痛になったこともある。
そうして愛もまた、睡眠不足の日々を送るはめになっていた。香波との違いは、彼女が寝るに寝付けないのに対し、愛は悪夢を見るのが嫌で徹夜をしていることだ。
授業をきいているつもりでも、ところどころ記憶が飛んでいることが、ままあった。ノートもまるでとれていない。これでは次の試験が思いやられる――手段の一つとして、クラスメイトの誰かにノートを見せてもらうことも、考慮しておいた方がいいだろう。
そんなことをつらつらと考えていると――突然、後ろの席からもの凄い悲鳴がきこえた。
驚いて振り向いた愛の視線の先にあったのは、沖田香波の血の気を失った顔だった。
寒さに凍えるように、香波は体を小刻みに震わせている。保健室で休んでくるよう促す女性教員の言葉にもう平気だと返し、その後も彼女は授業を受けた。だが愛は、それが香波の強がりであると察していた。ストーカーのことだけでも学校に来るのは辛いはずなのに、こうして律儀に登校してくる彼女を、愛は素直に尊敬していたが、同時に自分の内に溜め込み過ぎてはしないかと心配になるところもあった。
最近の香波がよく眠そうにしていることを、愛は知っていた。だから察するに居眠りをして悪夢でも見たのだろうが、それにしても様子が尋常でない。よほどおそろしい夢だったのだろう。
例えば自分の、首吊り死体に追いかけ回される夢のような――そう思ったとき、愛ははたと気付いた。
あの首を吊った少女――あの少女は、最初に樹の病室で見た、こちらを殺そうとしてきた同年齢、同じ高校の制服の少女と同一人物ではなかったか? 死体の方は顔が苦悶に歪んでいて今一つ確証は持てないものの、髪型や体格などが両者はとても似ていた気がする。
だがもしそれが正しいとして、それが何を意味しているのかまでは見当がつかない。そればかりか、余計に頭が混乱してしまう。そもそも夢というのは、いつだって支離滅裂で荒唐無稽なものだ。そんなものに筋道の立った解釈を施すこと自体に無理があり、しようとするのも不毛なことではないか?
ただの夢なら、そうだろう――あれが、ただの夢なら。
――夜風を、頬に感じた。愛はそれですぐに屋外だと分かった。
閉ざされた校舎内だった、いつもの夢とは違っていた。
夢を見ている間に、これは夢だと気付くことはない――だが今、愛が見ているのは普通の夢ではない。
そこは学校の屋上だった。背後にはステンレスのドア、見上げると漆黒の空、そして前方の転落防止用の金網――。
その金網の向こうで、首を吊った少女の体が揺れている。まるでこちらを誘っているかのようだ。
逃げ腰になる愛の気持ちとは正反対に、体は勝手に歩き出す。
行きたくない――拒む愛の意志を無視し、足は少女のいる金網に近付いていく。
あの少女だ、あの少女が自分の体を操っているのだと、愛は思った。
両手が金網をつかみ、どんどんよじ登る。
危ない、そんなことをしては――早く降りろ、早く――強く体に命じる。それなのに、まったくいうことをきかない。
そうこうしているうちに、体は屋上の縁に降り立っていた。
少女の姿はなく、愛と入れ替わるように金網の内側に移動していた。恨めしげな目で、彼女を見ている。
次には、すっ――と愛の片足が、屋上の縁を越える。踏ん張りたくともそれは叶わず、彼女の体は宙に投げ出された。
直後、愛は真っ逆さまに落ちていった。みるみるうちに地面が接近する。
レンガブロックで囲まれた一角――愛を迎えようとするかのような草花が見えた。
花壇だ――そう認めた途端、愛の視界は暗転した。
愛はそこで、夢から覚めた。意識が現実に戻っても、愛は平静になるまで、しばらくベッドから身を起こせなかった。
慣れない――この夢には、いつまでも慣れる気がしない。
「この夢、どこかで……」
今の夢は、これまでの夢とは違う――既視感がある。
既視感というより、既知感だ。確かに自分には覚えがある――いつ、どこで知ったのだろう?
寝そべったまま、愛は自分が見たばかりの夢の内容を反芻する。
少女の首吊り死体に誘われるように屋上の縁に立ち、自分は飛び降りた――落ちた先には花壇があり、それが眼前まで迫ったところで、夢は終わっていた。
「……花壇?」
そう、花壇だ――夢の中の自分は、ちょうど花壇に向かって落下していた。
そういえば――植草樹もまた、真下にあった花壇に落ちて、それで命を取り留めたのではなかったか?
更にもう一つ――最近の自分を悩ましているこの夢自体、病室で樹の体に触れた日から始まっている。
これは果たして、ただの偶然の一致に過ぎないのだろうか――ただの偶然と、頭から決め付けてしまっていいのだろうか?
偶然ではないとするなら――これまでの夢は、かつて樹の身に起きたことを、自分が追体験したもののように思える。樹が彼の意志で自分に見せたものということになるだろう。
もしそうなら――自分のこの推測が正しいなら、樹は夢を通して、自分にいったい何を伝えようとしているのだろうか?
考えても、愛には分からない――分かるのはただ一つ、自分はこの夢から逃げずに、これから見続けなければならないということだけだった。




