第三十四話 沖田香波 (10)
いまだ正体不明なままであるストーカーのために、香波の精神的苦痛は蓄積していった。
直接的な危害を加えられたわけではない――だがこれから更に悪質化すれば、いつそんなことが起こるか分からない。
香波は眠れない夜が続いていた――おかげで日中は睡魔との戦いだった。それでもストーカーの存在が彼女に安眠を許さない。
どんなときでも――何をしているときでも、誰かの視線が向けられている気配が抜けない。
心が安らぐ時間が、香波にはなかった。
いったい、いつになれば終わるのか――いったい、自分がどうすれば満足するのか――問おうにも、それを問うべき犯人がまったく姿を見せようとしない。
どこの学年の生徒かはおろか、自分のクラスにいるのか、そうでないかすら不明だった。
常に人に見られているような錯覚に襲われ、意味もなくきょろきょろと周囲を見回してしまい、落ち着いて授業も受けられない。
ストレスと睡眠不足が原因で、まともに思考が働かないばかりか、慢性的な頭痛にまでみまわれていた――自分でも学校に来られているのが不思議なくらいだ。
心身ともに疲弊し切り、香波はやつれていった。
淡々とした教師の声が、右から左に抜けていき、頭に入っていかない。ぼんやりとした状態て、香波はなんとなしに教室に目を配る。
「…………?」
おかしい――なぜだろう? どうも変だ――香波の頭に、何かが引っかかる。
拭い切れない違和感は、気のせいだと自分を納得させるには、あまりに大きいものだった。この教室には、確かに異常が存在している。
どんな些細なことも見逃さないように注意深く、授業中の教室を観察し、香波は違和感の正体に気付く。
教室にいる生徒の人数が――いつもより多かった。
心臓の鼓動が、一段高く跳ね上がる。こんなことなら気が付かなければよかったと、香波は後悔するも、遅かった。
彼女の目は、ある一つの席をとらえてしまっていた。
「…………曜、子?」
今は亡き少女――そこに存在するはずのない友人が、クラスメイトに紛れてノートをとっていた。
その様子は、生前とまるで変わりがない――曜子の死んだ事実そのものが、何かの間違いであったかのようにすら思えてくるほどだ。
まさか――香波は更に周りに視線を走らせ――ぴたりと目を止めた。
「…………植草、くん?」
窓際の席では植草樹が、なに食わぬ顔で教壇に顔を向けている。
謂れのない汚名をクラスメイトたちに着せられ、自ら死を選ぶまでのいじめを受け――今は病室で長い眠りに就いている樹が、以前と変わらず同じ教室で、同じ授業を受けている。
香波は最後に、教壇を見る。
「…………坂野、先生?」
踏切事故で死んだ、元クラス担任の坂野達明教諭が、教科書を片手に次の試験範囲を声高に強調していた。
彼らの平然とした姿を目の当たりにすると、香波はこれまでのことが性質の悪い冗談か何かで、自分はみんなに騙されていたのではないかと、そんな気がしてしまう。
――と、何の前触れもなく、教室の電気が消えた。
「…………え?」
教室だけではなく、学校中が暗くなり、香波は混乱した。頭が事態についていけない。
いや、そもそも今は昼間のはずだ――そう思って見た窓の外も、真っ暗だった。
「え……よ、夜?」
ありえない――自分は直前まで授業を受けていた。確かにそのはずだ。
だが教室には、いつの間にかクラスメイトの姿が見えなくなっていることに、香波はようやく気付いた。
「どう……なってるの?」
論理的かつ合理的な理屈をつけて、自身を納得させることすら叶わない。この状況に現実的な説明は不可能だと、認めざるを得ない。
恐慌寸前で、香波は人の姿を求めて視線をさまよわせ――彼女を見つめていた二つの目と、そこで合った。
一瞬、息が止まるほど香波は驚き、次いで戦慄が全身を走った。
それは、植草樹だった。彼はぶつぶつと、何かを口の中で呟きながら、瞬きもせず、じぃっ――と香波を見ていた。その瞳は不気味なほど虚ろで、人間らしい感情がこもっていない。
その樹の頭部から――たら、と一筋の真っ赤な血が流れた。血は彼の左目、左頬を横切り、顎先からぽたぽたと滴り落ちた。
出血は、一層に酷くなった。樹の髪に隠れて見えないが、開いた傷口からはあとからあとから血が溢れ――ついには彼の顔面のみならず、全身を赤く濡らしてしまった。
おぞましさのあまりに正視にたえかね、香波は思わず顔を背けた――が、そちらは前橋曜子の席がある方だった。
曜子もまた香波に目を向け、小声で何かを言っている。そして、その体が徐々に――。
「――ひっ……」
肌が水ぶくれで覆われていき、黄色の膿が吹き出した。真っ赤に爛れた外見へと見る間に変化し、生前の面影が失われる。
「あ……あっ……あ……」
がたっ、という椅子が引かれる音が窓際で聞こえる。もう何も見たくはない――香波のそんな思いとは裏腹に、音につられて反射的に目をやった先では、樹が席から立ち上がっていた。生気のない両目は彼女に向けられたままだ。
ゆらゆらと、ホラー映画に登場するゾンビのように上体を揺らしながら緩慢に足を動かし、樹は香波に向かって歩を進める――曜子を見ると、彼女も同様に近づいてくる。
香波は自分の席を立った。迫ってくる二人から目を離さず、ゆっくりと後退りをする。
「…………」
追い詰められたりすれば自分の命はないと、香波の本能が告げていた。そうして充分に距離をとってから彼女は背を向けて、教室の前方にあるドアを目指して駆け出した。
「――あっ!」
あと少しでドアに手が届くというときに、香波は右足を何かにとられた。突然のことで受け身もとれず、香波は勢いよく転倒してしまった。
「ぐっ……ぅ……」
全身を激しく床に打ち付け、苦痛のあまり身悶える。振り返り、自分の足をとらえたものの正体を確かめ――香波は悲鳴をあげた。
血塗れの坂野教諭が、香波の右足首をつかんでいた。かつて自分の運転する車体に押し潰されたため、他の二人と比べて肉体の損壊が著しい。見た目のおぞましさと漂う血臭で否応なく襲う嘔吐感をこらえ、込み上げた胃酸によって、香波の喉はひりひりと痛んだ。
「……て。こっ……に…………ち……」
坂野教諭もまた、樹や曜子のように言葉を繰り返し発していたが、千切れかかった首のせいか、まるで聞き取れない。
「――――っ!」
つかまれた香波の右足が、強い力で引っ張られる――その際に左肘も擦り剥いた。彼女が仰向けになると、坂野教諭はすぐ眼前まで迫っていた。
「い……や……嫌……」
床を這いずりながら、坂野教諭は香波に圧し掛かろうとする。
「嫌っ! 離して!」
香波は坂野教諭の体を左足で蹴りつけた。だがその左足を、彼の破れた腹腔に突っ込んでしまった。ずぶっ、という何とも形容しがたい嫌な感触とともに、左足は坂野教諭の腹に沈む。
「ああっ……あっ……ああああっ!」
香波は完全な恐慌状態に陥った。左足を引くが、まったく抜けない。
「嫌っ、嫌ぁっ――助けてっ! 誰か助けてっ!」
坂野教諭が自身の腹部に埋まっている香波の左足を両手でつかみ、ずるずると彼女を引き摺る――手が届きそうな距離だった教室のドアが、無情にも遠ざかってしまう。
「嫌っ! やめてっ! 離してっ――」
必死になって、香波は床を掻いた。引き摺られた分、床には彼女の爪痕が残される。
ふと自分を見下ろす影に気付き、香波は顔をあげた――いつの間にか、両側から挟むように樹と曜子が立ち、彼女を見下ろしている。
そして、二人の――四本の腕が、香波へと伸ばされる。
これまでより大きく長い絶叫が、香波の口からほとばしった――。
「――――――――あっ…………」
予兆も何もない、急な場面転換だった。いったい何がどうなっているのか、香波にはまるで分からない。
頭はまだ混乱のただなかにある。呼吸も乱れている――ただ、視界はなぜか明るい。眩しいほどだ。それに自分――自分の姿勢も違う。
そう――今の自分は、椅子に座っている。椅子に、机――教室の、いつもの自分の席。
「………………え?」
周りに視線を向ける。生徒はちゃんとみんな、揃っている。黒板の前にいる教員は女性だった――樹も曜子も坂野教諭も、ここにはどこにもいない。
「……………………」
胸に手を当てる。心臓は痛いほど高鳴っている。
そこで初めて香波は、教室が妙に静かなことが気になった。再度、視線を巡らす。
クラスメイトたちは全員、目を丸くして香波の方を見ていた。女性教員も例外ではない。
「…………沖田さん?」
静寂を破り、女性教員が口を開いた。
「あなた、どうしたの……大丈夫?」
「……え?」
「だって、いきなり大声を出すんだもの……とても普通じゃなかったわよ?」
「あ……」
そうか、夢だ――やや冷静さを取り戻した香波は、ようやく理解が及んだ。睡眠不足で自分はうっかり授業中に居眠りをしてしまい、それで悪夢を見ていたのだ。
「青い顔をしてるわね……体調が優れないなら、保健室に行きなさい?」
「あ、あの……」
「それとも今日は早退する? 担任の先生には、わたしから話をしておくけど」
「いえ……すみません。もう平気です」
「平気には見えないわよ? 無理強いはしないけど、我慢はしては駄目よ?」
「分かりました……」
香波はほっとした。ただの夢だったとしても、保健室で一人きりになる気にはなれない。今の時間に帰宅しても、親は仕事で、家には誰もいない。見知った顔が大勢いる学校の方が落ち着く。
中断していた授業が再開するが、香波はまったく別のことを考えていた。
夢の中で樹と曜子、それに坂野教諭――三人が揃って口にしていたのは、何の言葉だったのか? 夢と分かってもなお、気になる。
三人が何度も、繰り返し呟いていたフレーズ――小さすぎる声でよくきこえなかったが、そんなに長いものではなかったように思う。彼らの口がどう動いていたか、香波は自分の記憶を頼りに読み取ろうと試みる。
そうして、おそらくこうではないかという言葉に、香波は思いいたった。
こっちにきて――三人は、そう言っていたような気がする。




