第三十三話 植草樹 (6)
――思い出した。あの頃のことを何もかも、すべて。
自分たちは、確かに会っていた。少し面識がある程度ではない――あの公園で何度も言葉を交わした、それなりに親密といっても差し支えのない間柄だった。
そうだというのに――自分はなぜ、今のまで彼女のことを忘れてしまっていたのだろう?
それほど自分にとって、この記憶は、背負っていくには重すぎたということなのだろうか?
だが――こうして蘇った記憶を繋ぎ止めるすべは、今の自分にはない。
仰いだ夜空に、星の輝きは見付からない。そこにあるのは、どこまでもはてしなく広がる漆黒だけだ。
ようやく、思い出せたというのに――この記憶もやがて、あの夜空のような全き闇の中へ呑まれ、消えてしまうのだろう――今ここに立つ、自分の存在とともに。
夜空から目を離し、足元に視線を落とす。そこにあるのは、かつての自分の体だ。身動ぎせず、花壇の中で倒れている。
記憶を留められる肉体がこんな有様では、もうどうしようもない。
植草樹はつい先ほど、在学中である高校の屋上から身を投げた。この高さを落ちたのだから、ひとたまりもないだろう。
この暗さでは、樹の体の詳細な様子までは窺えない――知らない方がいいこともあるとは分かってはいるものの、何しろ自分自身のことだ。気にならないはずがない。
おそるおそる、樹は花壇へと接近する。足元に見下ろすところまで来て、彼は目を凝らす――自分で自分を見るというのはどうにも妙な感じというか、夢の中のようで現実味がなかった。
そのためか、樹は意外と冷静に自分の体を観察できた。
「…………え?」
倒れこんでいる樹の胸は、かすかに上下している――まだ、息があるのだ。
「い、生きてる……ぼく、生きてる?」
樹は思わず、自分の体に手を伸ばす。
「――駄目よ」
背後からの声に、ぴくっと手を止める。
「駄目よ。戻らせない」
聞き覚えのある少女の声――今の樹には、それが誰の発したものか、よく分かっていた。
「栞……お姉ちゃん?」
記憶の中の少女の名前が、樹の口からごく自然に漏れた。
「で、でも……ぼくは死んでないんだ……」
「そうやって、またわたしを置いて逃げるつもり?」
反論する樹の腕を、少女――松島栞がつかむ。
「次はないって、言ったでしょ?」
少女とは思えないほど強い力で、栞は樹を、彼の体から引き離した。
そして二人の姿は、すぐにその場から見えなくなった。




