第三十二話 小畑愛 (6)
日を追うごとに、香波の表情は暗くなっていった。顔色も非常に悪く、病人のように青白い。
それに上の空というか、授業中でもどこか集中力を欠いているようだ。口数もめっきり減っていた。
考えるまでもなく、原因は分かっている――千春の仕業だ。彼女の悪意が、香波を追い詰めているのだ。
そのことを知っているのは、千春本人を除けば愛一人だけだった。
愛は千春に、何度も香波への嫌がらせを止めるよう訴えた――だが、まったく聞き入れられない。わずかでも良心があればと期待していたわけではないが、彼女とは同じクラスメイト――いや同じ人間同士における、通常の対話は望めないような気がした。
無力な自分が、愛は腹立たしかった。
その日、学校が終わった下校途中に愛は寄り道をした。最近まで自分がいた病院だ。
実は入院中、香波が廊下で挙動不審な素振りでいるところを、偶然にも見かけたことがあった。
香波が肩を落として去ってから、彼女のいた場所まで来てみると、そこが植草樹がいる病室と知り、かなり驚いた。
愛がきいたところによると、学校の屋上から身を投げた樹は、真下にあった花壇の土がクッションとなって一命は取り留めたものの、現在まで昏睡状態が続き、意識が戻るのは絶望的ということらしい。
「……あの子、やっぱり相当、気に病んでるんだ」
樹がストーカーではないと知っている今なら、香波の気持ちは痛いほど分かる。何を隠そう愛自身もそうだからだ。何の罪もないクラスメイトに死を選ばせたのは、他ならぬ自分たちだ――言い訳はしない。こちらの判断が誤っていたのは、千春のことで証明されている。
非があると認めたなら、当然、謝罪は必要だろう。すでに手遅れだという思いもあるが、それとこれとは別だ。相手に伝わるかどうかではなく、行為そのものに意味がある。
改めて樹の病室の前に来て、間髪入れずにドアをノックする。こういうのは勢いが大事だ。間を空けると決断が鈍ってしまいそうだからだ。即断即決、有言実行が一番だ。
「…………?」
ところが、中からの反応はない。今は樹だけで、看護師や家族はいないようだ。
「ん……どうしよっか……」
さすがの愛も、一人で面会するのはためらわれた。だが樹には、自分のしたことで後ろめたさこそあれど、今は何も邪な気持ちはないと、すぐに思い直した。それでも彼女は、遠慮がちにドアを開ける。
――樹は病室の奥のベッドで横になっていた。
まず愛の目に入ったのは、ベッド脇にある点滴だった――おそらく栄養補給用だろう。 壁際には心電図のモニターもある。
愛は樹の傍らに行き、彼の顔をのぞき込んだ。
口には酸素マスク――鼻からはチューブが伸びていて、その他に何本も、樹の全身から点滴にあるいくつものポンプに繋がっている。
「…………」
これ以上は直視にたえられず、愛は目を逸らした。自分の想像など及ばないほど、あまりにむごい有様だった。
いや、これでは駄目だ――愛は背けた顔を、また樹に向ける。自分が招いた結果だ。しっかりと見なければならない。
思えば、近頃は災難続きだ。香波はストーカー被害を受け、自分はそれを知りながらも打つ手がなく、どうすることもできない。数日前には友達とクラス担任が奇妙な死を遂げている。
これは罰なのかも知れない――愛はそんなことを、ふと思う。自分を含めた樹のクラスメイトが犯した罪に対する罰を今、自分たちは受けているのではないか?
それなら、どれだけ苦しめば――どれだけこの罰にたえれば、許しを得ることが叶うのだろう? 神様でも誰でも、自分たちに罰を与えている存在がもしいるのなら、それについてすぐにでも問いかけてみたかった。
「――または死ぬまで許されない、とか……」
もっとも最悪の可能性を小さく呟き、愛は自嘲する。
「無駄にポジティブなだけが、自分の長所のつもりだったんだけどな……」
それにだって、限界というものがある。度を越した楽観は危機感の欠如でしかない。
「樹……あんたはどう思う? 今のこの状況をさ?」
眠り続ける樹に、愛はたずねる――返事など、あるはずがない。
「怒るなら怒ればいい……笑いたければ笑えばいいさ。それであんたの気が済むなら」
それでも、愛は樹に話しかけることを止められない。
「だから、さ……早く目を覚ましてくれない? あたしに謝らせてくれない? リアクションがないってのも、やっぱり虚しいし」
話すうちに、次第に気持ちが昂ってくる。
「聞こえてないと、意味ないしさ……これじゃまるで、あたしの独り言じゃん?」
こうしている間も、樹からは何の反応もない。謝るにしても償うにしても、それが本人に伝わらなければ、何の意味がない――謝罪しに来たというのに、愛は理不尽と知りつつも、一向に目覚めない樹に苛立ち始めた。
「ねぇ、聞いてる? 起きてってば、樹――」
昂る感情のまま、つい手を伸ばし、樹の肩に触れてしまう。
唐突な――あまりに唐突な変化だった。
樹に触った途端、指先にぴりっと静電気が走ったような痛みを感じたと思えば、愛の視界は、まるで違う風景に切り替わっていた。
代わりに現れたのは、女の顔――愛と同年齢くらいの、少女の顔だった。
少女の後ろには、茜色の空が見える――ということは場所はどこか屋外で、時刻は夕方頃だろう。その他は、よく分からない。
実際――愛に今の状況を呑み込んでいる余裕はなかった。
愛は、少女に首を絞められていた。
喉が押し潰されそうに痛い――息がまったくできない。何がどうなっているのか理解できない――自分は、このまま死ぬのか?
樹の病室にいたはずが、いきなりわけの分からない状況に放り込まれ、命の危険にさらされている――愛が恐慌をきたすのも無理はない。
少女は体の上に跨り、首を絞める手をなおもゆるめようとはしない。だが、その顔付きには、こちらに対する憎しみ――殺意はうかがえない。認められるのは、ひどくく悲しそうな表情――ただ、それだけだった。
この少女はどうして、こんな顔をしているのか――どんな経緯があって、この状況にいたったのか――当然、愛に分かるはずもない。
極限の苦痛に、意識が薄れかけたとき――最初と同じく、またしても突然に、少女の姿が掻き消えた。喉の圧迫も、同時になくなった。
愛はうずくまり、涙目なりながら解放された喉を抑えた。
顔をあげると、愛が本来いた樹の病室に、景色が戻っていた。
「何……いったい何、今のは?」
疑問が口をついて出る。
そもそもあれは、現実的な説明をつけることが可能なのだろうか――愛は、とてもそうは思えなかった。
唯一はっきりしているのは、愛が樹の体に触れてすぐ、あの異常な出来事――現象、と言った方が的確かも知れない――が、発生したということだ。
愛は、変わらずベッドで眠ったままの樹に、目をやった。
「もしかして……あんたが見せたもの?」
樹は答えない――もとより返事は期待していない。それでも、そうとしか思えない。愛は自分のこの考えがあながち間違ってはいない気がした。
それに――冷静に思い返して、また分かったことが、一つだけある。
こちらを殺そうとした、見知らぬ少女――あの少女が着ていたのは、自分が通っている高校と、同じ制服のようだった。
「……あの女は、誰……?」
たずねても当然、樹は何も語らなかった。
その後、愛は樹の病室を出たが、少女に絞められていた首が、まだひりひりと痛んでいた。
帰る前にいったんトイレに寄り、洗面所の鏡で首の具合を確認する。
鏡に向かうなり――愛は絶句した。
首には少女の手形が赤く、くっきりと残されていた。




