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第三十話 過去 (2)

 初対面以降、樹は公園で、たびたび栞と会うようになった。

 ――とは言っても、あらかじめそのように約束していたわけではない。学校が終わってから行っても、いないときもある。それでも栞の方はよく公園で暇を潰すらしく、足繁く通ううちに親しくなっていった。

 二人は大抵、雑談をして過ごした。初めこそ最近見たテレビ――身の回りで起きた些細な出来事などの他愛にない話題が大半だったが、日を重ねるにつれて互いに心を開くようになり、自分の身の上にについても、少しずつ語るようになった。

 大好きだった父の死――最期までろくに見舞いも行かなかったことへの罪悪感――特に栞からうながされたわけでもなく、ごく自然な流れで、樹はそんな自身の胸の内を吐露していた。

 栞は、樹の語った内容に対しての意見は何も述べなかった。ただ微笑みながら相槌を打っていただけだ。

 樹にとっては、それだけで充分だった。自分の心の痛みを何も言わず受け止めてくれる相手がいるだけで、彼は救われていた。

 


 ある日――公園のベンチに腰かけている栞を見て、樹は驚いた。彼女の瞼が赤く腫れていたからだ。さっきまで泣いていたのだろうことは、すぐに分かる。

 どうしたの――喉から出かけた言葉を、樹は呑み込んだ。黙り込んで、いつものように栞の隣に座る。

 

 「わたしは、要らない子なの……家でも、学校でも……」

  

 樹の物問いたげな視線に気づいたのか、栞の方から打ち明けた――その口調は他人事のように淡々としていている。

 国語の教科書を朗読しているようだ――当時の樹はそう思った。

それ以上の事情は、栞の口からはきけなかった。たったそれだけでも、幼ながらに感じるものはある。

 きっと、自分には想像ができないほど辛い目に遭っているのだろう――そう、納得した。

 

 「……そうなると、樹くんがわたしのたった一人の友達ってことになるね」

 

 一転して冗談交じりに、そんなことを栞は言った。まだ目尻に残る涙のあとが、そんな彼女の口調を裏切っていた。

 

 「何だよ、それ……いつ、誰が友達だって……」

 

 戸惑い、顔を背け――それでも精一杯の強がりを見せて、言葉を紡ぐ。

 

 「仕方がないなぁ……分かったよ栞お姉ちゃん。ぼくが友達になってあげるよ」

 

 「本当? ふふふ……ありがとう、樹くんは優しいんだね」

 

 栞は柔らかく微笑み、樹の頭を撫でる。


 「バカにするなよ……子ども扱いしてさ」

 

 「ごめん。嬉しかったから、ついね」

 

 そう言って笑顔を向けられると、樹もそれ以上の文句は言えなかった。

 樹自身――この年上の友達との変わった関係を、とても気に入っていた。 

 


 それから更に、数日が経過した頃だった。樹は栞と会うため、いつものように公園に向かった。

 栞はすでにいて、ベンチに座っている――彼女のいるところに、樹はまっすぐ歩いていく。

 何だか様子がおかしい――樹は子どもながらに察した。

 この日の栞は、笑顔を見せなかった。樹とのやりとりも、どこか上の空だった。とは言っても、無遠慮に追及することが憚られる。

 今までと比べて、樹は栞といるのがあまり楽しいとは思えなかった。そのためか、時間が過ぎるのもやけに遅く感じた。

 

 やがて、公園の時計が六時を示した――もうそろそろ夕飯の時間だ。

 

 「……ねぇ、樹くん」

 

 唐突に、栞が口を開く。それで樹も立ち上がりかけた腰を戻す。

 

 「何……栞お姉ちゃん?」

 

 理由の分からない不安を感じながら、樹はたずねる。

 

 「樹くんは……お父さんに、また会いたいって思う?」

 

 「……え?」

 

 質問の意図がつかめず、樹は返答に困った。

 

 「どういう、意味……?」


 「そのままの意味だよ……亡くなったお父さんに、会いたいって思わない?」

 

 「そのままって、言われても……」


 「……会いたくない? お父さんに」

 

 なぜそんなことをきくのだろう――樹は戸惑う。


 「会いたいよ。会いたいに決まってるよ……」

 

 それでも思ったままを、樹は口にする。


 「そう……じゃあ、目を閉じて」

 

 樹には、栞の言いたいことがまったく分からない――分からないなりにとりあえず彼女を信じることにして、両の瞼を閉じてみる。

 

 「…………」

 

 首に、栞の手の冷たい感触がする。いったい何を始めようとするのだろう?

 

 「……すぐ楽になるからね、それまで我慢して?」

 

 そんな栞の、普段と同じ優しげな声が聞こえた直後――いきなり喉を、強く圧迫された。

 

 「――――んぐっ?」

 

 目を見開くと、栞の顔が間近にあった。今にも泣きだしそうな顔だった。

 

 「ぐぐっ――うっ!」

 

 そのままベンチに押し倒される。栞は樹の上に馬乗りになり、全体重をかけて更に樹の首を絞め続ける。

 

 「んっ――ぐぐっ――ぐうっ――」

 

 呼吸のできない苦痛から何とか逃れようと、無我夢中で樹は暴れた。首から引き剥がそうと、栞の両手をつかむ。

 

 「ううぐっ――ぐぐぐっ――んんぐっ!」

 

 いくら樹が男で、栞が女だといっても年齢にも背丈にも差がありすぎる。力ではどうにもならない。

 

 「――ぐぐっ、んっ――うっ――んぐっ、うっ――」

 

 視界がちかちかと激しく明滅する――死に物狂いで、栞の手の甲を引っ掻く。

 

 「――――っ!」

 

 ふっ――と、喉にかけられた両手の力が緩んだ。樹はベンチから転げ落ち、げほげほと咳き込む。

 「…………どうして?」

 

 栞の声がした。

 

 「どうして……抵抗したの?」

 

 肺に酸素を取り込むことに精一杯で、樹に答える余裕はない。

 

 「一緒に……わたしと一緒に、いってくれるんじゃなかったの……?」

 

 ようやく落ち着いてきて、樹は栞に顔を向けた。彼女はベンチの上からこちらを見ている。その目からは、後から後から涙が流れている。

 

 「ぼ、ぼく……死にたくなんて、ないよ……」

 

 「……嘘吐き」

 

 樹の言葉を聞いた栞は、大きく両目を開けて彼を睨み付けた。

 

 「いいよ……そんなにまだ、生きていたいなら……分かった」

 

 それはこれまで、樹が一度も耳にしたことのない、栞の憤怒の声だった。彼女の声は低く、重く、樹へと響いた。

 

 「でも、覚えていて……この次は、もう、ないから……」

 そして、栞は樹の前から姿を消した。

 

 樹は、この日のことを母には伝えなかった。もともと栞について話したことがなかったというのもあるが、どうにも自分が、栞を深く傷付けてしまったような――そんな罪悪感があったせいだ。

 

 危うく殺されかけたのは事実だ――それでも樹は、あのときの強い怒りと深い悲しみの混在した栞の表情が、目に焼き付いて離れなかった。



 翌日になってから、樹は栞に謝ろうと公園に足を運んだ――だが、夕飯の時間まで待っても彼女は現れなかった。

 次の日――そのまた次の日と、樹は公園におもむいた。それでも栞には会えなかった。彼女の自宅の場所も連絡先も聞いていなかったことが、ことさらに悔やまれた。

 


 栞が自らの命を絶ったらしいと知ったのは、自宅の近所で喪服を着た人々を見かけたときだった。それも母が隣人と井戸端会議をしているところを小耳に挟んで知り得たことだった。

 自分のせいなのか――自分があの日、公園で栞を拒絶したせいで彼女は死んだのだろうか?

 栞は、自分に裏切られたと思っただろうか――それはどれほどのショックだったのだろうか?

 幼い身にはあまりにも荷が重すぎる懊悩に、樹は毎日、苛まれた。

 ――だが、その間も時は冷酷に流れていった。成長に従い、樹の心の傷も次第に癒えていった。

 それでも――どれだけ時が過ぎようと、当時に感じていた痛みが薄れようと――決して失ってはならない思い出は、確かにある。

 

 樹はそんな思い出を、完全に忘れてしまっていた――死が身近に迫る、そのときまで。 

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