第二十九話 小畑愛 (5)
頭部を強打したものの、入院中の検査でも異常や後遺症もなかった。強いていば、傷口を何針か縫ったくらいだ。
不幸中の幸いと言うべきか――小畑愛は、何事もなく退院した。
だが、愛の気分は重かった。怪我に問題はなくても、彼女はもっと別の――むしろ怪我よりも深刻な問題を抱えていた。
千春からされた、自分が香波を好きではないかという指摘――当然、友達としてという意味ではないだろう。女としての香波に好意を抱いていると、千春は言ったのだ。。
今まで考えたこともなかったが、衝撃だったのは、自分がその際、はっきりとその事実を否定できなかったことだった。
そんな馬鹿な――そう思いながら、声高に反論できなかった。
自分のことを言われたのに、その事実はあまりに意外で、愛は生まれて初めて、自分自身に不信感を持ってしまった。
千春からの指摘を踏まえ、改めて過去を振り返ってみると、自分でも思い当たるふしが多かった。
特に顕著だったのは、ストーカーの件だ――自分は誰よりも犯人とされた樹を憎んだ。
香波が自分に悩みを相談してくれなかったときも、本気で怒り、悲しかった。
香波が関わると、いつも自分を見失ってしまう――どうしても感情を剥き出しにしてしまう。
大事な友達なら当然だ――果たしてそうだろうか? 何も友達は香波一人ではない。そこに優劣はないし、あってはならない。だが他ではあそこまで我を失ったことは一度もない。
きっと自分の中で、香波は特別な位置を占めているのだ――自分にとって、友達以上の存在なのだ。
物事を難しくとらえたり、深く追求するのは苦手だった。だからこれまでは、香波に対する自分の不可解な感情の正体について考えはしなかった。
今になって思うと、それは事実に蓋をし続けるための、自分への言い訳に過ぎなかったのかも知れない。
入院中に、香波は何度も見舞いに来てくれた。それ事態は嬉しかったが、千春に言われたことのせいで彼女を強く意識してしまい、顔すらまともに見られない有様だった。
これまでは普通に接していた友達相手に、自分はこんなにも緊張して、どきどきしている――そんな自分自身に、愛は自己嫌悪を覚えていた。
――そういう理由から、愛は学校に行くのが憂鬱だった。。香波と顔を合わせることは、同じクラスである以上は避けようがない。
自分はこれから、どのように香波と接していけばいいのか――自身の気持ちすら折り合いがつかない今では、それに結論を見出すことは難しかった。
登校できるようになっても、頭部の包帯は巻かれたままだった。まだほどいては駄目だと
医師は言っていたが、愛からすればこれも憂鬱の元だ。嫌でもクラスメイトに気を遣わせてしまう。
案の定、仲の良い女子生徒たちは、こぞって愛の身を案じてくれた。表向きは自分で階段から落ちたことになっているとはいえ、彼女はあまりそのことについて触れられたくなかった。
そして愛を怪我させた張本人である千春は、クラスメイトに混ざって白々しく彼女を心配する素振りをしていた。
だが愛の周りに人がいないときを見計らい、彼女に囁いた。
「念を押すけど……分かってるよね?」
「…………」
「心配しなくても、あたしに協力しろとは言わないよ。ただ邪魔しないで口をつぐんでてくれれば、それでいいからさ」
それだけ言うと、千春は離れた。
香波との関係は進歩がなかった。むしろよりぎこちなく、他人行儀になっていた。初対面の頃の方がまだフレンドリーだったと思うほどだ。
どうすればいい――香波への気持ちを自分の中で、どう処理すればいいのだろう?
答えが出ないうちには、香波とは距離を取らざるを得なかった。
放課後になり、心身ともに解放され、脱力感を覚える。久しぶりの学校はさすがに疲れた。席から立つのが億劫なくらいだ。
のんびりとした足取りで、愛は昇降口に向かう。
クラスの下駄箱まで来たところで、愛の足はぴたりと止まった。
「香波……」
そこにいた友人の名前が、つい口をついて出る。
「あ……愛。今、帰り?」
「……まあね」
それきり会話は途絶えた。気まずい空気から早く脱したいあまり、愛は自分の下駄箱で、急いで上履きを脱ぐ。
「…………」
上履きを下駄箱に突っ込み、革靴を履く。
「……愛?」
いざ帰ろうとすると、香波が呼び止めた。遠慮がちな、小さい声だ。
「……何?」
足を止め、振り返る。視線は香波の顔からはずれていたが、視界の端で、彼女がこちらに真摯な眼差しを向けているは確認できた。
「愛……何か、あったの?」
おずおずと、香波はそんなことを口にする。
「何かって、何?」
「……入院してから愛、いつもと様子が違うみたいで……」
そう言う香波の表情にも、どこか陰りがうかがえる。
「わたしの、気のせいかも知れないけど……」
最後にそう付け加え、香波は目を伏せた。
「…………」
「何でも話して? 愛にはいつも助けられてるし……わたしも、愛の力になりたいから」
黙する愛に、香波は問う。
「わたしには言えないこと? わたしじゃ……役には立たないこと?」
「…………」
「……ごめん。無理には聞き出すのは、良くないよね。愛が話したくなったら、いつでも相談して?」
じゃあまた明日ね、と言って、香波は帰っていった。
「何してんだろ……馬鹿だな、あたし」
香波がいなくなってから、深い溜め息を吐いた。つくづく、自分という人間が嫌になる。
理不尽な怒りをぶつけられた後だというのに――その当人が沈黙を貫いても、香波は気分を害した様子はなく、むしろこちらを気遣ってさえいた。
自分のことはさておき、彼女はただ純粋に、友達のことを心配しているのだった。
香波は本当に優しい子だ――美人な上に性格も良い、自慢の友達だ。
それに比べて、自分はどうだ――私的なことで、うじうじと悩んでばかりで、香波の気持ちなど考えていない。
もっと素直に、もっと単純に、香波が大事なら大事と、それだけでいい――その方が自分らしくはないか?
分かっている――そんなことは百も承知だ。何を優先し、何をなすべきか、頭ではよく理解している――つもりだった。
それなのに、自分の心はこんなにも不安定で、揺れている。
何一つの疑問もなく、自分は香波の友達であると、堂々と言い切れる自信がない。そんな自分に苛立ち、そこから一歩も前に進めず、足踏みをしてばかりだ。
「ごめん……香波」
悔しさの滲む声で、愛は呟いた。




