第二話 植草樹 (2)
がたがたがたっ――。
力まかせにドアを開けようとするが、鍵がかけられているのかびくともしない。すぐに断念し、樹は美術室の前から離れ、再び駆け出した。
真夜中の学校だった。なぜ自分はこんなところにいて、何から逃げているのか――そんな当然の疑問など、抱いている余裕は少しもない。
あるのは自分に迫ってくるものへの、本能的な恐怖だった。
廊下を走り、目についたドアに片端から手をかけていった――だが、どれも開けることはできない。
まるで学校そのものが悪意を持って、自分を閉じ込めようとしている――そんな錯覚さえ、樹は抱いた。
二階の渡り廊下までやってきたところで、樹は思い切って振り向いた。
――誰も、何もいない。気配すら感じない。蛍光灯の明かりの下には、人気のない廊下が続いているばかりだった。
安堵した途端に疲労を覚え、樹は両膝に手をつき、呼吸を整えた。それでも警戒を怠ることなく、渡り廊下にそっと足を踏み出した。
前後に目を配りながら、渡り廊下を進んでいく。
正体の知れない相手――本当に存在するのかも怪しい相手だが、どうやら振り切ることには成功したらしい。このまま見つからず、外に逃げだすことさえできれば――。
半ばまできたとき、急に周囲が暗くなった――かと思うと、若干の明るさを取り戻す。樹が見上げると、天井の蛍光灯が頻繁に明滅している。
その現象は、渡り廊下の蛍光灯、すべてに起こっていた。
ぱんっ――。
いきなり背後から、大きな破裂音がした――びくっと反射的に振り返ると、一本の蛍光灯が粉々に砕けて廊下に散らばっていた。あまりにも心臓に悪い。
さっき通ったばかりの廊下の向こうは、またもや弱まった蛍光灯の明かりで、ほとんど見通せなくなっていた。
その暗がりを見つめているうちに――樹の体は、次第に震えはじめた。
いる――確かにいる――あそこには今、何か怖ろしいものが――。
ぶつぶつと、両腕に鳥肌が立つ。すぐにここから逃げろと急かすように、心臓は早鐘を打つ。
樹の目の前で廊下の向こうが明るくなり、薄闇が払拭される。樹の視線の先が、露わになる。
――そこに、一人の少女がいた。
制服を着ている――ということは、この学校の生徒なのだろう。だがそれにしても、何だか様子がおかしい。うつむいて、体をゆらゆらと揺らしている。
その理由に気付き、樹の表情が恐怖にひきつった。
少女は宙に浮かんでいた。両腕両足をだらんと垂らし、首の辺りからは紐状のものが天井に伸びている。
少女は、首を吊っているのだった。
途端に薄暗くなり、少女の姿は隠された。本当は逃げ出すべきだと分かっているはずなのに、樹は少女のいた場所から、目を離すことができなかった。
再び、廊下が照らされる。
少女の首吊り死体は、まだそこにあった――だが気のせいか、彼女は移動しているように見える。さっきは渡り廊下の手前にいたはずが、今はもう廊下に入っている。
だが、それは決して樹の見間違いではなかった。
蛍光灯が明滅する度――少女の首吊り死体は確実に樹へと近づいていた。首にある紐状の先も、天井に括りつけてあるわけではなく、空間に溶け込むようにそのまま消えてしまっている。
やがて蛍光灯も寿命が近いのか、明滅の間隔が短くなってきた。
音もなく、少女は廊下をやってくる――その速度は、徐々に増してきている。
悲鳴をあげ、樹は踵を返し、ようやくその場から逃げ出した。
何度も足がもつれそうになり、それでも転ぶことだけは避けつつ、渡り廊下を走り抜ける。階段を数段飛びで一気に駆け降り、昇降口を目指す。
あとは廊下の突き当たりを左折すれば、そこはもう昇降口だ――そうすれば外に出られる。あの少女から逃げのびることができる。逸る気持ちに対し、自分の足が追いついてこないことを、樹はもどかしく思った。
痛む脇腹を無視し、樹は角を曲がり――
――目の前に、首を吊った少女がいた。
「――――わあぁっ!」
樹はたまらず、尻餅をついてしまう。飛び出さんばかりに見開かれた両目――歯の間からだらしなくのぞく舌――苦悶に歪んだ少女の死顔が、樹を見下ろしている。
「ひっ……」
腰が抜け、もう立つことができない。樹は尻餅をついた状態で必死に両手両足を動かし、できる限り少女から遠ざかろうとする。
そんな樹を追うように――少女の眼球がわずかに動く。続いて顔も、ゆっくりと動く。
すっ――と少女の体が樹に接近した。
「うわわっ――くるなっ、くるなよぉっ――」
だが、後退る樹より、少女の方が早い。すぐに互いの距離が縮まる。
樹は顔を背けて目を閉じた。その他に、追い詰められた彼が取れる手段は残されてはいなかった――。
――目を開くと、樹を取り巻く環境は一変していた。彼はベッドに仰向けになり、放心状態のままで天井を見上げていた。ついさっきまでの暗さが嘘のように、今は朝日が室内を満たしていた。
そこは見慣れた、樹の部屋だった。それで彼は今までのおそろしい体験が、夢だと知った。
着ているパジャマは汗を吸い、肌にべったりと張り付いている。気持ちが悪くて、樹はすぐに脱いだ――ただの夢だと分かってはいても、痛いほどに激しい心臓の鼓動は、まだおさまらない。
枕元の目覚まし時計を見やる。部屋を出て寝巻きを洗濯機に放り込むと、制服に着替えた。
家の中は樹一人――母はすでに仕事に行った後だった。食卓には朝食がラップに包まれて置いてある。
どれほど辛くても、学校には行かなければいけない。仮病を使って休んだところで、あくまでその場しのぎでしかない。
樹は今朝も家を出る。彼にはその他の道を選ぶことが、どうしてもできずにいた。




