第二十八話 沖田香波 (8)
病院の廊下で、香波は病室のドアを前に佇んでいた。何度もドアに手を伸ばしかけては引っ込めるを繰り返している――傍から見れば不審に見えるだろう。
そこは愛の病室ではなかった。それなら、ここまで逡巡する必要はない。
これも何度目になるのか、香波はドアの脇にあるプレートを見やる――『植草』とそこには書かれている。
初めて樹の病室を発見してから、香波はいつもここに来ていた。だがその度にこうして迷った挙げ句に諦めて帰り、いまだに踏ん切りがつかずにいた。
樹がここに入院することになったのは――彼をそこまで追い詰めた原因は、他ならぬ自分にある。そんな自分が、樹を面会する資格が、果たしてあるのだろうか――そんなことが、自分に許されるのだろうか?
そんなことが頭の中をぐるぐる巡り、どうしても勇気を出せずにいた。
それでも自分は、樹に謝りたい――たとえ昏睡状態の彼から返答がもらえないにしても、自分のした過ちを、樹の前で懺悔したかった――自己満足かも知れないが、人として、それは必要なことに思えた。
ストーカー行為について、樹は最後まで否定していた。
違う――本当にやってない。頼むから信じて――樹はずっと、そう訴えていた。なのに自分を含め、誰も彼の言葉に耳を貸そうとしなかった。
苦し紛れの言い訳――往生際の悪い男と、みんなが口を揃えて樹を非難し、ときには口汚く罵り、ときには暴力までふるった。
どうしてあのとき、自分は樹を信じることができなかったのだろう――自分だけでも味方がなっていれば、あんな結末にはならなかったのではないか? そうしなかったのは自分も心の中で、彼が犯人ではと疑う気持ちがあったからではないか?
自分のせいだ――自分さえ周囲に流されず、しっかりと意見を口にしていれば――。
考えれば考えるほど、思考が悪い方へと向かう。病室の前から離れたくなる弱気な自分を、強く意識して両足に力を入れることで、この場に繋ぎ止める。
意を決して、香波は病室のドアをノックした。
「――はい」
返答があった。香波は深呼吸をして待つ。
間もなくドアが開かれた。顔を見せたのは看護師ではなく、小柄で痩せた中年女性だった。
見たところ、樹の母親だろう――心労のためか頬はこけ、目の下には濃い隈ができている。
それもすべて、自分たちがしてきたことの結果だと思うと、香波は罪の意識にいたたまれない気持ちになった。
「あ……」
いざ樹の母親と相対すると、香波は言葉に窮した。こういう場合、最初にどう切り出すのか正しいのか、見当もつかない。
樹の母親の方は香波を認めた途端、表情がかたくなった。彼女の制服を見て、誰なのかを察したのだろう。
「あ、あの……わたし、植草くんのクラスメイトで――」
勇気を出して、香波は口を開く――だが言い切る前に、樹の母親に腕をつかまれた。
爪が食い込み、痛みを覚える――だが振りほどくわけにもいかず、香波はたえることにした。
「どうしてなの? 樹がいったい何をしたの? あの子に何の非があったっていうの? 」
樹の母親が問い詰める。そのあまりに悲痛な声に、香波は腕の痛みを忘れた。
「 答えて……答えてよ……」
激しく、腕を揺さぶられる。
「……何も、悪くありません。樹くんは……」
正直に、そう返答していた。樹の母親は香波の腕を離したが、一転して険しい表情になった。
「……何も? なのに樹はあんな目に?」
「ごめんなさい……本当に。わ、わたし……」
香波は頭を下げ、誠心誠意を込めて謝罪の言葉を口にした。
「……何なの今更。もう遅いわよ……謝られたところで、あの子の意識は戻らないわ」
怒りに震える声が頭上からふり、次いで病室のドアが閉ざされた。
「ごめ……ごめん、なさい……ごめんなさい……ごめんなさ……」
涙声になりながら、香波はすでにいない相手への謝罪を止めることができなかった。




