第二十五話 安西千春 (3)
病室のドアを閉じ、背を向けて歩きはじめてからも、千春の顔はまだ笑っていた。
先ほどの愛の反応は見物だった。まったくの無自覚というわけではなく、彼女自身も多少は思い当るふしがあったのだろう。
耳を塞ぎ、取り乱したように帰れと連呼する愛を見て、千春には確かな手応えがあった。悪いことをしたといいう認識はなく、あるのは彼女の弱点をうまく突いたことの満足感だけだ。
「おまえと付き合って、おれに何かメリットあんの?」
千春はかつて、井上卓也に思いきって告白したことがある。
断られるのも覚悟の上だった。だが卓也の返した言葉は、千春もさすがに予想できなかった。
「おれと付き合いたいなら、ダイエットでもして痩せろよ。あと整形しろよ」
「せ……整形?」
「目と鼻と口と……っていうか全部な。安心しろよ。何も沖田レベルまでとは言わねぇからさ」
「か……香波?」
「ああ……おまえ、沖田と仲が良かったよな? なぁ、あいつに関する情報、おれに教えてくれよ」
「あ、あたしが? 何で……」
自分の声なのに、ひどく遠い。聴力の異常を疑ってしまうほどだ。喉もからからに渇いている。
「当たり前だろ。沖田のオプションでしかないおまえの相手をする理由がなんて、他にないからな」
「…………っ!」
千春は俯く。耐え難い屈辱、凄まじい怒りに視界が狭まり、歪む。噛み締める唇の痛みすら、それらを和らげはしない。
「で? どうなんだよ? 沖田の友達なんだろ?」
卓也がなおもきいてくる。
「……友達?」
「何だよ、違うのか?」
失望したような卓也の声――それなら用なしだと言わんばかりの声。
「ううん……そう、友達だよ」
嘔吐感に似た込み上げる感情を、強引に腹の底に押し込めて、千春は顔をあげ、そう答えた。
そのときの自分が、はたしてどんな顔をしていたのかは分からない。その後、卓也とどんな会話を交わし、いつ別れたのかも、記憶に残っていない。
香波香波香波香波香波――男はどいつもこいつも馬鹿の一つ覚えみたいにあの子のことばかり。香波について何も知らないくせに。
自分の方が香波のことを知っている。自分の方がよほど詳しい――なぜなら自分は、香波の友達だからだ。
だからこそ、納得がいかない――香波のどこがそんなにいいのか? 見てくれが良いだけで、どうして香波だけが――自分だって、人を好きになる権利はある。それなのに、なぜあんな仕打ちを受けなければいけないのか?
原因は分かっている――香波がいるからだ。よりにもよって香波なんかが自分と同じ学校で、自分と同じクラスにいるから悪い。
すべて香波のせいだ――あの子がいけないんだ。
千春の思考は、もはや香波への呪詛で溢れかえっていた。
校内の自販機で飲み物を買い、渇いた喉を潤す。だが千春の荒んだ心は、いつまでも潤うことはなかった。
それから、更に数日が経ったある日――放課後に学校を出てすぐ、課題のプリントを教室の自分の机の中に入れたままだったことを千春は思い出し、引き返した。
教室のドアに手をかけたとき、中に誰かがいる気配がして、動きを止めた。
まだ残っている生徒がいたのか――それにしても一人でこそこそと、何をしているのだろう?
好奇心が首をもたげ、千春は音を立てないように、ドアをそっとわずかに開けて、その隙間に顔を近付けた。
「曜子……?」
見間違えようもなく、それは前橋曜子だった。しかも彼女はごそごそと、香波の机の中へと何かを突っ込んでいる。
「…………」
千春はゆっくりとスマホを取り出すと、曜子に気付かれないよう慎重に構えて、目の前の光景を撮影した。
用が済んだのか、曜子の足音が近づいてくる。いったんその場を離れ、彼女が帰るのを待ってから、千春は教室にあるプリントを回収した。
曜子が何をしていたのかは、分からない――が近頃、香波はストーカーの被害に遭っていることもある。
怪しい――もしかすると曜子は、何か関係しているのではないか?
とっさにそう思い、千春は現場の写真におさめたのだった。
翌日――結果はすぐに判明した。香波の机の中から、これまでストーカーが忍ばせていたものと、よく似た写真が出てきたのだ。
怯える香波を見て、千春は人知れず快感を覚えていた。
整った香波の顔がひきつる様子は、何とも嗜虐心をそそられる――香波のこの表情を誰よりも間近で見るためだけでも、このまま彼女の友達を続ける価値があると、千春は思った。
機会を見て、曜子を呼び出す。彼女は怪訝な顔をしながらも応じた。だが千春がスマホに保存してある例の写真を見せた途端、彼女は狼狽した。
「こ、これ……どうして?」
「たまたま見かけてね。何かあるんじゃないかって、思わずね」
「違う……これは……」
曜子は首を振り、否定する。
「違う? じゃあこれ、今から香波に送ってもいいんだ?」
「そっ……それは……」
曜子の表情は青ざめている。
「どうしたのさ曜子? 違うなら構わないじゃん」
「…………」
曜子はしばらくおし黙っていたが、やがて絞り出すように声を発した。
「……しょうがないんだよ」
「? しょうがない?」
「香波の友達でいるのに……必要なことなんだよ、これは」
詳しい事情はともかく、千春は曜子から自分と同類のにおいを感じた。
「ふぅん……曜子も苦労してんだね。香波とはあたしよりも長い付き合いなんだから、それも当たり前か」
「……?」
「あのさ、あたしにも一枚噛ませてよ?」
「な……何でそんなこと……」
「嫌ならいいよ。香波にバラすだけだから」
自分でも意識しないうちに、千春の口の端が吊り上がる。
「分かった……分かったよ……」
千春の不気味な笑顔に怯えた様子で、曜子は承諾した。
二人の目的は、あらかた一致している。大きく異なるところといえば、千春は自分のしていることに何らためらいがなく、また罪悪感すらないのに比べ、曜子は自分の行いをよく理解し、また香波にも後ろめたさを感じていることだった。
こうして千春は、曜子の共犯者になった――だが、主導権は彼女にあるのが実態だった。
樹にすべての罪を擦り付けることを考えたのも、千春の方だった。曜子は最初こそ反対したものの、弱味を握られていることもあって、彼女にはどうしても下手に出てしまい、結局は千春の発案が通ってしまった。
そして――樹は自殺を図った。
「もうやめよう……あたしたちのせいだよ」
泣きながら訴える曜子の言葉にも、千春は聞く耳を持たなかった。
「平気平気。死人に口なしだよ……あ、樹は死んでないや。でも意識が戻る可能性は限りなく低いらしいし、同じことだって」
嬉々として語る千春を、曜子は何かおそろしいものでも見るような目を向けた。少なくとも、クラスの友達に向ける視線ではなかった。
共犯関係は、曜子が自宅の浴室で変死を遂げるまで続いた。その後は千春がすべて引き継ぎ、次の犯人役として豊を選んだ。
樹の呪いなどおそれるに足りない――生霊だの怨念だの、阿呆らしいにもほどがある。人間に害を為すのは常に同じ人間だ。ちょうど、今の自分のように。
だが、豊まで死んでしまったのは想定外で、千春も困った――それもまた別の犯人役を探すのは面倒だというだけだ。それ以外の何ものでもない。
クラスメイトといえど、赤の他人に過ぎない。自分の身にさえ火の粉が降りかからなければ、どうでもいいことだ。
香波にした口実通りにトイレに行き、鏡で自分の顔がにやけていないか確かめてから、一階に降りた。
「ごめん、なかなか見つからなくてさ」
受付ロビーで待っていた波に、そう弁解する。
「ううん、そんなに遅くなかったから……」
応える香波の表情は曇っている。ストーカーに愛のことなど、いろいろな苦悩を抱えているのが、どうにも隠しきれていない。
そういえば、最近の香波はほとんど笑わない。あったとしても、その場しのぎの無理のある作り笑顔くらいだ。
元気のない香波といると――千春は口元が綻びかけるのをこらえなければならず、それが大変といえば大変だった。




