第一話 植草樹 (1)
今にもひと雨きそうな、重く垂れ込めた鉛色の雲を見上げ、植草樹は深い溜息を吐いた。その回数は家を出てから、軽く十は超えているだろう。
気分は沈む一方だ。樹にとって、毎朝の登校は苦痛の極みだった。実際にストレスで体調を崩して病欠したことも、一度や二度ではない。
だからといって、ずっと休んでいれば出席日数が足りなくなるし、授業にも追いつけなくなる。何より母に心配をかけてしまうことだけは避けたかった。
校舎が見えてくると、途端に足の運びが鈍くなる。一分一秒でも学校に着くのを先延ばしにしようという、ささやかで無駄な抵抗だ。前を行く三人組の女子生徒の談笑が、ひどく耳障りだった。
校門をくぐり、昇降口にいたる。恐る恐る下駄箱をのぞき、特に異常がないことを確かめて、革靴から上履きに履き替えた。
廊下をとぼとぼと進み、階段をのぼり、自分の教室を目指す。
教室の前に着き、引き戸に手をかけた――一度、大きく深呼吸をする。
――背中に、強い衝撃が走った。
樹はたまらず転倒した。誰かに蹴られたのだと、すぐに分かった。振り向くとやはり、そこには同じクラスで坊主頭の男子生徒が立っていた。
「――邪魔だ、どけよ」
舌打ちし、男子生徒は教室内に消えた。樹はよろよろと立ち上がり、後に続こうとする。
引き戸を開けた途端――甲高い悲鳴があがった。
悲鳴の主はちょうど教室から出ようとした、いかにも気の強そうな顔立ちの女子生徒だった。偶然にも樹と鉢合わせし、大袈裟に仰け反る。
「あ……ご、ごめ」
「喋んな、きもいんだよ」
謝りかけた樹の言葉を遮り、女子生徒はあからさまなまでの嫌悪感で顔を歪ませ、吐き捨てるように言った。教室内から数人の笑い声がする。
「うっわ……ひでぇ」
「言い過ぎ。泣いちゃうんじゃね?」
「ま、気持ちは分かるけどな」
「ていうかさぁ……何で学校来たの?」
「朝っぱらからテンション下がるし。あんな顔、見せられたら」
「早く学校辞めるか死ぬか、どっちかにしろっての」
「クラス替えてくれねぇかな、あいつだけ」
「いやいや……それじゃ他のクラスの奴が可哀そうだろ」
「おお、それもそっか」
むきだしの悪意が樹を傷つける。そんな言葉による暴力から身を守るように彼は背を丸め、うつむきながら自分の席に向かう。
周りから離されている、窓際にある自分の席に座った。まずは机の整理をしようと思い――違和感を覚え、樹は中を見る。
机の中には、大量のゴミがぎっしりと詰め込まれていた。
クラスメイトの誰かがやったことであるのは、疑いようがない。座ったばかりの席を立ち、教室の後ろに行く。隅にあるゴミ箱の中身を確認する。
樹の教科書やノート――プリントや筆記用具の類は、すべてそこに放り込まれていた。
「ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てねぇとな」
男子生徒の一人が口を開いた。
「っていうか、あいつ自身がゴミみたいなもんだけどな」
また別の男子生徒が言うと、その台詞を受けるように、今度は女子生徒らしい声がした。
「ほんとに、クラスにとって要らないものよね」
教室中が嘲笑で満ちる。樹は唇を噛み締め、ひたすら屈辱にたえるしかなかった。
ホームルーム後の清掃時間――。
ほんの数分前に食べた弁当の中身を、樹はトイレでもどしてしまった。ただし嘔吐したのは便器ではなく、タイルの上にだった。
三人の男子生徒に囲まれ、樹はよってたかってデッキブラシで小突き回されていた。ホースで大量の水を浴びせられ、全身はずぶ濡れだった。
デッキブラシで顔面をタイルに押し付けられる――樹が嘔吐したのは、そのときだった。
「せっかく綺麗に洗ってやってんのに、また汚れちまったじゃねぇか」
一人の男子生徒の声が、頭上から降る。それを合図にするかのように、体を擦るデッキブラシに、更に強い力が込められた。
頬の皮膚が剝けて、血が滲む。樹は為すすべもなく、クラスメイトの攻撃を受け続けた。
喧嘩は苦手だった。腕力にも自信はない。それに抵抗すれば、更にいじめが酷くなることは分かり切っていた。だから下手に刺激を与えず、逆らわない方が得策だと、樹は半ば諦観まじりに考えていた。
高校卒業までの辛抱だ――そうすれば、この生地獄からも解放される。
樹はそう信じて、今の高校生活が過ぎ去るのを、ただ待ち望んでいた。




