第十八話 小畑愛 (1)
小畑愛という人間は、極めてシンプルだった。彼女自身、物事を深く考えることが苦手というのもあるだろう。
だからというべきか、愛の学校における成績は、お世辞にもあまり良いとは言えない。むしろ、下から数えた方が早いくらいだ。
それに、今はどちらかといえば、勉強よりもバイトの方にやりがいを感じていた。 一方、人間関係においても愛はざっくばらんだ。他の女子生徒の中には、相手によって接し方や態度をころころ変えている者もいるが、彼女自身は自分はそこまで器用な真似はできないと思っている。一緒にいて楽しければそれでいい――というのが、愛の考えだった。
その日の放課後――クラスメイトの沖田香波と安西千春と一緒に昇降口を出たところで、香波が一人の男子生徒に呼び止められた。
またか、香波も大変だな――そのときには、愛もその程度に感じていた。
男ほど諦めの悪い生き物はいないと、愛はつくづく思う。今のように香波が男子生徒にからまれるのは、もう見慣れた光景だ。
男子生徒は同じクラスの井上卓也だった。見てくれこそいいが、性格は下の下だ。
少し離れたところから、香波はちらちらと二人の方をうかがい、愛たちを待たせてしまっているのを気にしていたが、卓也の方は香波以外はまるで眼中にないようだった。
ようやく解放されたのか、香波が申し訳なさそうな表情でやってきた。卓也はこちらを一瞥すると、鼻を鳴らして去っていった。
「――お疲れ、香波」
愛は明るく友達を労う。
「ごめんね……二人とも」
「平気、もう慣れたし。それにしても美人っていうのは辛いね」
「からかわないでよ……愛」
「いや実際のところ、あたしも男に生まれていたらなぁ……もしかしたらチャンスがあったかも」
「え……何を言ってるの?」
「うわ……あんたまさかそういう趣味――」
香波は本気でうろたえ、千春は本気でひいていていた。
「冗談だってば冗談」
それを聞いた香波と千春は、二人とも本気で安堵していた。
「――それで香波、結局は井上を振ったの?」
三人で帰る途中、千春が興味本意でたずねた。
「別に振ったわけじゃ……まだ、ちょっとこわくって……」
「――ん? ああ……植草のことね……」
香波の肩が、びくっと震える。
つまり香波はストーカーの件以来、軽い男性恐怖症に陥っているのだろう。彼女がわざわざ言葉を濁していることを指摘する空気の読めなさに、愛は千春を睨み付けて、彼女を非難した。
「…………」
香波は黙りこんでいる。心なしか、先ほどよりも顔色が優れないように見える。
「…………そのこと、何なんだけど……」
気まずい沈黙を破ったのは、香波自身だった。
「もし、仮に……あれが植草くんの仕業じゃなかったとしたら……二人はどう思う?」
香波の言葉は、問いかけというより独り言でも呟いているような調子だった。ふざけられる雰囲気ではないことは千春も感じたのか、その表情から笑顔が消える。
「何? どういう意味?」
「だから……もしも植草くんが犯人じゃなかったらの話で……」
「そうじゃなくて。何で急にそんなこと言い出したのさ?」
「それは……」
「植草じゃないの? 証拠だってあったでしょ」
愛も一緒になって追及する。
「…………」
「香波、もしかして……」
千春が何かに気付いたように、はっとした。
「どうした? 千春?」
見当もつかない愛は、千春にきいた。
「もしかして、まだ続いてるの?」
「…………」
香波は頷かなかったが、その沈黙こそが、千春の指摘が正しいという答えになっていた。
「そうか……今も尾けてきてるんでしょ? だからさっきから様子が変なんだ」
「マジ!? ねぇそうなの香波?」
愛の詰問にも、香波は無言でうつむくばかりだ。
そこで、千春がさっと素早く振り返った。その表情が怒りに歪む。
「――いたっ! 今、慌てて隠れた」
言うが早いか、千春は駆け出した。二人が止める暇もない。だが物陰を確認すると、すぐに引き返してきた。
「いない……逃げられた」
歯軋りの音が聞こえそうなほど、千春の声は悔しげだ。
「……いつから?」
言葉が勝手に、愛の口から滑り出た。自分でも驚くほど、険のある声音だった。
「ねぇ、いつから続いてたのさ? 植草が飛び降りる前から?」
「…………あ、後から」
観念したのか、ようやく香波が白状する。
「植草くんが、疑われてからは、やんでた……再開したのは、植草くんが屋上から飛び降りて、しばらくしてから……」
「それから今まで、ずっと?」
こく、と香波は頷く。
「ずっとあたしたちには内緒で……一人で抱え込んでたの?」
矢継ぎ早に問いかける。昂る感情を自分で抑えられない。
「あのさ、香波は別に悪くないじゃん。なんかさっきから香波を責めてるように聞こえるんだけど?」
たまりかねた千春が、二人の間に割って入る。
「千春は黙って。今は香波にきいてるんだよ」
「はぁ? 何その言いぐさ」
「ご、ごめんね愛……」
「謝ることないって、香波」
「だからうるさいよ、千春は」
そして愛は、香波に向き直った。
「信じられない……」
「…………」
「何で相談してくれなかったの……?」
「…………」
「友達だと思ってたのに……」
言い捨てて、愛は二人を置いて足早に歩き去った。
興奮が覚めてきてから、愛は歩く速度を落とす。
香波が悩みを打ち明けてくれなかった怒りも確かにあった。だがそれ以上にそのことに何も気付けず、何もできなかった自分自身が許せなかった。
それにしても、どうしてあそこまで頭に血がのぼってしまったのか――なぜあんなにショックを受けたのか――愛は自分でも分からなかった。