第十七話 沖田香波 (5)
夜が明けた。今日も学校に行く時間が訪れる。
ストーカーの正体が分からないうちは、外出するのがこわい――だが、そう思ってばかりはいられない。
このまま不登校になり、家に引きこもる生活を想像する――ストーカーのために、なぜ自分がそこまで犠牲を払わなければならないのか?
今の香波が必要としているのは、おそれよりも怒りだった。怒りは積極的な――ときには大胆な行動の後押しをしてくれる。
卑劣なストーカーに屈するわけにはいかない。
香波はそうやって自分自身を鼓舞し、今朝も自宅から出て、学校に向かう。
昨日、入江豊と話した限りでは――少なくとも香波が感じた限りでは、彼が嘘を吐いているようには見えなかった。
特に根拠があるわけではなく、ただの直感に過ぎない。それでも今回は、その直感を頼りにしようと決めていた。
これは豊にも言ったことだが、疑うことならいくらでもできる。だからこそ、そのような安易な手段は、なるべくは避けていきたい。
「…………?」
教室は騒然としていた。中には泣いている女子生徒までいる。豊の姿はない。まだ登校していないようだ。
また何かがあった――何か悪いことが。恐る恐る、香波は教室に足を踏み入れる。
「ねぇ、香波……」
最初に話しかけてきたのは、小畑愛だった。声は微かに震え、表情もひきつっている。
「やばいよ、マジで……シャレになんない」
樹の呪いに関しても強気だった愛が、今度は本気で怯えているようだった。
「いったい……何が?」
覚悟を決めて、香波は訊ねた。
香波の問いに応じて、愛が驚くべきことを口にした。
「入江が――死んだらしいよ」
「えっ!? 本当っ? 入江くんが?」
昨日、二人で話をしたばかりだ――その入江が、たった一晩のうちにこの世からいなくなったというのは、親友の曜子が死んだときとはまた違う衝撃を香波に与えた。
「……香波? どうかした?」
香波の反応を過剰に思ったのか、愛は怪訝そうだ。
「ごめん……何でもない」
「そう? ならいいけど」
それ以上は追及することなく、愛は話を続ける。
「しかもさ……入江は誰かに殺されたみたい」
「殺され、た……?」
「うん。隣のクラスの子が部活の朝練で登校したときに、警察から聴き込みされたんだって」
それで愛の様子に納得がいった。
樹の呪いなどと噂をされてはいても、これまでの二件は、あくまで表向きは事故死と説明がついていた。だが今回は殺人事件だ。豊を殺したのは、生身の――外見上は自分たちと変わらない人間だ。呪いよりずっと現実的で、危険な存在が、この近辺を徘徊している――愛が恐怖を覚えるのも無理はない。
「どうして、入江くんが?」
「分からない……犯人が捕まらないことにはね」
愛のその言葉でこの話は終わった。朝礼でクラス担任が改めて豊の訃報に触れたきり、授業は通常通りに進んでいった。
今日一日の授業が滞りなく終了し、学校を出る。バイトが休みだという愛と千春も一緒だが、本当のところはどうか分からない。
「――すみません、ちょっと」
校門を抜けたところで、いきなり声をかけられた。背広姿の二人組の男性で、香波から向かって右側が三十代前半ほどの小柄で柔和な顔の男性、左側が白髪が目立ち、額がやや後退した五十代半ばぐらいの強面の男性だった。
刑事だ――香波はすぐに分かった。愛と千春も同様なのか、二人とも表情が強張っている。
「わたしたちは、こういうもので」
初めに話しかけてきた白髪の刑事が言って、警察手帳を見せる。
「この学校の生徒さんが亡くなった事件について調べていて、今もこうして皆さんに話を聞かせて頂いただいているところなんです」
白髪の刑事の口調は丁寧だった。事件が与える生徒への影響を考え、慎重になっているのだろう。
「それで……ええと、沖田さんというのは、どなたでしょうか?」
「え……あの……?」
名指しされて、香波はうろたえた。
「……あなたですか?」
「あ……はい、そうです」
刑事に見つめられ、素直に頷くしかない。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。少し聞きたいことがあるだけですから」
「……はい」
「実は、亡くなった入江豊くんと最後に会ったのがあなただということを、他の生徒さんから聞きまして」
刑事のその言葉に、愛と千春が驚きの顔を、そろって香波に向ける。
「それで、そのときの入江くんの様子で、特に変わったところなどはなかったですか?」
「変わったところ……?」
「ええ。何に怯えていたとか、そのような」
「いえ……これといって何も」
「普段と変わらず?」
「はい……」
「見かけた生徒さんは、お二人はどこかただならない雰囲気だったと言っていましたが……差し支えなければ、どんな話をしていたか教えて頂けますか?」
香波は答えに窮した。ストーカーのことなど言えるはずもない――ましてや相手は刑事だ。関係性が明らかになるまでは伏せておくべきだ。
「――そんな個人的なことまで話す必要があるんですか?」
言葉に詰まる香波へ、愛が助け船を出す。白髪の刑事は困ったように眉を八の字にした。
「ああ、いや……こちらとしては疑問点は少しでも解消しておきたいので」
「たまたま最後に話したのが香波だったというだけで、ここまで深く突っ込まれるんですか? まるで容疑者扱いじゃないですか? そんな質問に答える義理なんてないです」
更に愛は食ってかかる。
「そうですね、すみません沖田さん……立ち入ったことをお聞きして」
「あ……いえ」
香波は首を振った。
「それよりも――刑事さん?」
「何ですか?」
「入江くんは誰に殺されたんですか?」
途端に、白髪の刑事の表情が曇る。
「それはまだ、何とも言えませんね。そもそも誰からきいたかは知りませんが、まだ入江くんが、本当に殺されたのかどうかも――」
「――入江くんは自宅近くの路上で発見されてね」
小柄の刑事が会話に割って入った。
「遺体の傍に血の付いたコンクリートブロックがあったから、多分それで後頭部を殴打されたんじゃないかなぁ――」
「おい、彼女たちは被害者のクラスメイトだぞ? 不謹慎だ、口を慎め。それに捜査内容をみだりに話す馬鹿がいるか」
べらべらと喋る小柄の刑事を、白髪の刑事は叱りつける。
「おっと、こいつは失礼」
小柄の刑事に反省の色はない。
「――もう行こうよ、香波」
愛にうながされ、香波は二人の刑事に頭を下げてその場を後にした。
しばらく三人の間を、気まずい沈黙が包む。
「……ところで、さ」
最初に沈黙を破ったのは愛だった。
「実際は、入江と何を話してたの?」
「えっと……それは……」
どう誤魔化せばいいのか――香波は知恵を絞る。
「へ? マジで分からないの?」
千春が口を挟んだ。
「入江に呼び出されて、告られたに決まってるじゃん。男と二人きりで、しかもただならない雰囲気って、それしかないじゃん」
「……そうなの? 香波」
「う、うん……」
思わず、香波は肯定してしまう。
「そっかぁ……もてるしね香波は」
それで愛は納得したが、香波としては複雑な気持ちだった。
対して面識のない男子に好意を持たれたところで、香波にとっては困惑するばかりだ。それだけでなく、過去には見ず知らずの女子の反感を買い、嫌がらせに近いことをされることもあった。
隣の芝は青く見える――香波からすれば、愛や千春の方がよほど羨ましく思えた。
途中で二人と別れ、香波は自宅に帰りついた。
車がないことに気がつく。母が夕飯の買い物に出かけているのだろう。家の中にあがってみると、やはりどこにも姿が見えない。
自分の部屋に入り、ベッドの上に鞄を置く。小腹が空いていたが、夕飯まで待つことにする。悩み事があろうとなかろうと、胃袋には関係ないらしい。
携帯のバッテリーが残り少ない――鞄の中から充電器を探す。
見つけた充電器を取り出そうとして、一緒に入っていた物に指が触れる。入れた覚えのないものだ。
だが、その薄っぺらい感触には覚えがあった。
鞄から出すと案の定、それは写真だった。香波の全身がかたくなる。
最初に目に飛び込んできたのは、写真の裏の文字だった。
『これまでで一番いい顔だよ。香波ちゃん』
見れば必ず後悔すると分かっていた――事実、今もこの写真の存在ごと、記憶を消してしまいたいと、香波は思った。
だが、自分はこの写真に気付いてしまった。それをなかったことにはできない。
だからこそ、確かめずにはいられなかった。
「――――っ」
香波自身の怯えた表情が、そこにはあった。
教室の自分の席だ――他に写っているのは、愛だ。彼女と話をしているところだろう。
今朝、豊の死について知らされたときだと、すぐに分かった。
いったい、いつの時間に自分の鞄に忍び込ませたのか――考えてみても、なかなか思い当たらない。
濡れ衣を着せようとした豊が死んだばかりでも、ストーカーにとっては、もはや関係がないのか?
この犯人は楽しんでいる――自分を苦しめることに、心の底から悦びを感じている。
「もう……やめて……」
香波はその場にうずくまると、独りきりで、ただ涙を流し続けた。