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第十六話 入江豊 (4)

 香波と別れた後、帰りにほんの少しだけ寄り道をしたつもりが、日がすっかり落ちるまで遅くなっていた。

 豊が通る路地は、彼以外の足音はおろか、行き交う車さえ見当たらない。動くものといえば、懲りもせずに街灯に体当たりを続けている羽虫ぐらいだ。

香波との会話は緊張した。話の内容は当然ながら、彼女と二人きりだという状況が、彼を余計に落ち着かない気分にさせた。

 今は男子と付き合う気持ちになれない――香波がそう口にしたときは、豊はまるで自分が振られたように感じた。それでも卓也に関する心配がなくなっただけでも良かった――あくまで現時点においてだが。

 香波が自分を信用すると言ってくれたことは、素直に嬉しく思う。だがもっとも重要で、根本的な問題――自分を陥れようとした香波のストーカーについては、それが誰なのかが不明のままだ。

 卓也は性格上、陰でこそこそ行動するような人間ではない。虫唾の走る人間ではあるが、そこは間違いないだろう。

 犯人は自分のクラスの男子か、それとも別のクラスの顔も名前も知らない誰かなのか――香波に好意を持つ男子はどれほどいるのか――考えていると頭が痛くなる。現行犯で捕まえるか、言い逃れのできない証拠を見つける以外に手はないだろう。香波も言っていたが、樹のときと同じ失敗は決して犯すわけにはいけない。 一度でも他人の耳に入れば、噂はすぐに学校中に広まり、本人が精神的にたえ切れなくなるまでスケープゴートとして叩かれ続けることは、火を見るより明らかだ。それを避けながらの犯人捜しとなると、それこそ警察でもなければ難しい。ましてや自分のような学生がどうこうできる問題ではない。

 こうして自分があれこれ悩んだところで、今後における対処――警察に知らせるかどうかも含めて――はすべて、被害者である香波次第ということになる。悲しいことに友達でも恋人でもない、ただのクラスメイトに過ぎない自分が、彼女にとやかく言える立場ではない。そもそも今はとりあえず信用されてはいるものの、 香波にとっては自分もいまだに犯人候補の一人であることも忘れてはいけない。今度こそ本当に彼女から疑われることも覚悟しておくべきかも知れない。 

 


 それにしても静かだ。家々の窓からは明かりも、人の話し声すら漏れきこえることはない。住人みんなが眠ってしまったかのようだが、日暮れから間もない時刻にそんなことはありえない。

 「……なんか、不気味だな」

 わざと口に出して言ってみる。だがそんな独り言は、余計に静寂を意識させられる結果を招くだけだった。

  豊はつい早足になった。暗さと静けさが苦手というわけでもない。その程度でこわがるほど、自分を子どもだとは思わない――思わないが、今夜に限って、それはどうにも不吉さをまとっているように感じて仕方がなかった。

 

 ――背後に気配を感じた。自然と全身が強張る。

 

 「…………」

 

 振り返った途端、目に入った灯りの眩しさに、豊は目を細めた。

 車の、ヘッドライトだった。きっと仕事から帰ってきた会社員か誰かの車だろう。

 

 「何をびびってるんだ……ぼくは」

 

 自分の臆病さに苦笑し、やってくる車のために片側に寄り、道を空ける。

 車が、こちらに近づいてくる――運転手がアクセルを強く踏んだのか、徐々にその速度が上がる。

 

 「――――――――」

 

 距離が縮まるほど、車の速度は増していく。

 

 「――――――――?」

 

 普通、人と車がすれ違うとき、運転手は慎重になって逆に速度をゆるめるものだが、この運転手は道幅から見て、自分はいけると判断したのだろう。

 

 「――――――――え?」

 

 車は自分とすれ違い、そのまま通り過ぎていくと、豊はそう思っていた。

 だがもともと、相手にそのつもりはなかった。

 豊がよけた同じ道の片側に、突然その車も寄せてきた。速度を落とすこともなく、彼の方へ突っ込んでくる。

 

 「ひっ――――」

 

 衝突する直前、豊は間一髪で車を避けた。がりがりっ――と車体が民家の塀を削る。 

 地面についた手のひらを小石で切ってしまい、痛みとともに血が滲む――だが今は、そんな些細なことを気にしていられる状況ではない。

 車は七メートルほど進んで停まった。

 タイヤがじりじりと動く――こちらにバックしてくる。次こそ豊を仕留めるために狙っている。

 すぐさま立ち上がり、豊は背を向けて逃げ出す。車も一気にスピードを増した。

 必死に、全力で豊は走る――追い付かれるか、自分が転んでしまえば終わりだ。死は確実に、すぐ後ろまで迫っている。

 走りながらも、どこへ行けば助かるか、頭を働かせる。

 一つ違う角を曲がれば命取りになるかも知れない――迅速かつ正確な決断を求められる――自分にそれができるか、豊には自信がない。何をどう選んでも裏目に出る気がしてならない。

 痛いほどに心臓が暴れる――息が乱れて苦しくなる――両足はもつれそうになる。

 足が遅くなっているのが自分でも分かる。体力の限界が近い。気持ちに足がついていかず、前のめりになりつつも転ぶことなく走れているが、それも長くは保たないだろう。


 「――――っ!」


 視界の端に、人一人がようやく通れるほどの、塀と塀に挟まれた横道が映った。

 この機会を見逃すわけにはいかない――豊は強引に足の向きを変え、その横道に身を滑り込ませた。

 直後――車は停まることなく、横道の入り口を通り過ぎた。息を喘がせ、豊は遠のいていく走行音をきいた。

 

 「い……行った?」

 

 これで大丈夫なのだろうか――もう危険は去ったのだろうか?

 呼吸が整うのを待ってから、横道を奥へと進む。このまま反対側に抜けた方が、自宅へは近い。

 横道の出口に辿り着く。豊は一歩、足を踏み出す。

 危ない――出ては駄目だ――本能が強く訴える。

 反射的に、豊は身をひいた。

 目と鼻の先を、猛スピードで車が横切った。轢き損なったと分かると、けたたましい急ブレーキの音を響かせた。


 「な……」


 あと一秒でも、気が付くのが遅ければ、自分は死んでいた――豊の顔面が蒼白になる。

 車の運転手は諦めてなどいなかった。ただ横道の出口に回り込んでいただけだった。


 「何なんだよ、畜生――っ!」


 悪態を吐き、再び逃げる――自宅からは離れていくが、どうしようもない。

 曲がり角を利用して、何度かまこうと試みるが、どれも失敗した――相手にも土地勘があるのだろう。

 やがて行く先に交番が見えてきた。そこにいる警官に、助けを求めることにする。

 今度こそ、この危機から脱け出せる――豊は悲鳴をあげる両足を叱咤しながら、交番を目指す。


 「――――は?」


 だがいざ交番を前にして、豊は絶望的な気分に陥った。

『巡回中』――硝子の引き戸の貼り紙には、そう書かれていた。


 「う、嘘だろ……」


 それでも諦めきれず、引き戸を開く。当然、誰もいない。

 右手の机に電話が置いてあった。藁にもすがる思いで、豊は受話器を取る。

 110番にかける――焦れながら発信音に耳を傾ける。

 やがて受話器越しに、相手の気配がした。


 「――あっ、あのっ――た、助けくださいっ! 車に追われていてっ、ころ、殺されるっ――」


 勢い込んで、豊は喋った。


 「早く来てくださいっ! こ、ここは――」


 そこで豊は、相手の反応がまるで無いことに気付いた。


 「――? もしもし?」


 「……………………」


 「聞こえてますか? も、もしもしっ?――」


 「…………て……」


 ようやく相手が口を開いた――だがその声はか細く、聞き取り難い。


 「…………に……て……」


 「あ、あのっ――」


 「――こ…………て……」


 「な、何ですか? もっと大きな声で――」


 「――こ…………に……て……」


 警察ではないと、豊は思った。若い女性――少女と呼べる、おそらくは自分と近い年頃の人間の声音だ。


 「――こ…………にき……」


 口を閉ざし、豊は耳を澄ます。

 

 「――こっ…………にき……て……」


 「……?」


 「――こっ……ちに……き……て……」

 

 「……え?」


 「――こっち……に……き……て……」

 

 こっちにきて――少女はそう言っていた。

 

 「――こっちに……き……て……」


 「…………」


 「――こっちに……きて……」

 

 豊は受話器を耳に押し当てたまま、動くことができなかった。


 「――こっちに……きて……こっちに……」


 まるで呪文のように、少女は同じ言葉を繰り返している。それは怒りも悲しみも、何の感情も宿らない虚ろな声だった。


 だが、豊には少女の声が――とてもおぞましいものにきこえていた。


 「――こっちに……きて……こっちに……きて……こっちに……きて……こっちに……きて……こっ――」

 

 豊の目が、ふと交番の外に向いた。

 ちょうど車が交番目がけ、いっさい速度を落とすことなく向かってくるところだった。

 受話器を放り出し、豊は机から離れる。

 直後――制限速度を優に超過した車が、交番の入り口に突っ込んだ。

 硝子の引き戸を突き破った車は、そのまま反対の壁に衝突してようやく停まった。砕かれた机や電話の破片が無残にも転がっている――さっきまで、豊がいた場所だ。

 豊は尻もちをつき、放心状態になっていた。死と紙一重のところだったため、無理もない。

 車のフロント部分は破損し、エンジンが煙をあげている。漏れたガソリンの匂いもする。

もう完全に使いものにならない――運転手も無事ではすまないだろう。

 

 がきっ――と、車から軋んだ音がした。

 

 豊は我に返り、車を見る。

 音がしたのは、運手席側のドアだった。ひしゃげたドアが、内側から押し開かれようとしていた。

 豊の見ている前で、ドアは開かれる。だが、開いたそのドアが邪魔で、運転手の姿を確認できない。

 びちゃっ、と湿った音がドアの陰から聞こえた。何かが――誰かが運転席から落ちたようだ。

 ドアの下からゆっくりと、赤い液体が広がっていく――。

 血――それも、夥しい量が流されている。

 

 ずっ……ずっ……がりっ……ずっ……ずっ……がりっ――。


 重い物を引き摺るような音――それは動いている。あれほど多量の血を失っているのに、まだ生きている。


 「ひ……」


 歯の根が合わず、かちかちと耳障りな音を立てる。寒くもないのに全身の震えが止まらない。


 「ひ……ひっ……」


 ドアの端を、血塗れの手がつかんだ。


 「……ひぃっ……」


 続いて黒い髪――頭がドアの隙間からのぞいた。更には顔、首、肩――それらを含めた全身――。

 だが、それは――ほとんど人のかたちをしていなかった。

 腕も脚も折れ曲がり、頭蓋骨は砕け、顔面からは右眼が飛び出し、圧し潰された腹からは、腸がはみ出している。

 これはもはや、生きた人間ではありえない――一目見ればすぐに分かる。死んでいる――死者が動いている。


 「ひっ……ひっ……」


 変わり果てた姿だが、豊はその人物のことを知っていた。いやでも思い当ってしまった。


 「ひっ……さ……坂、野……先、生……?」


 それは紛れもない、かつて自分のクラス担任だった人物――坂野達明教諭だった。


 「ひっ……ひぃっ……」


 恐怖のあまり、豊の顔面は涙と鼻水で濡れている。


 がりっ……ずずっ――。


 床を爪で引っ掻きながら、坂野教諭は這いずって、豊に近づいてくる。零れた腸がその後方に長く伸びている。


 「く、来るな……」


 がりっ……ずずっ……がりっ……ずずっ――。


 「来るな、よぉ……」


 がりっ……ずずっ……がりっ……ずずっ……がりっ……ずずっ――。


 少しずつ、だが確実に、坂野教諭は向かってくる。


 がりっ……ずずっ……がりっ……ずずっ……がりっ……ずずっ……がりっ……ずずっ――。


 「く、来るなってば……」


 がりっ……ずずっ……がりっ……ずずっ……がりっ……ずずっ……がりっ……ずずっ……がりっ……ずずっ――。


 「ひ……ひぃっ!」


 迫りくる恐怖に耐え切れなくなり、豊は弾かれたように立ちあがると、その場から逃げ出した。

 死に物狂いで、走り続けた。

 どこをどう逃げたのか、豊は覚えていない。ふと後ろを振り返ったときには、自分を追ってくるものは、もう何もいなかった。

 そこでようやく、豊は走るのを止めた。


 「――あ……」


 呆然とした顔を、前方に戻す。いくつもの民家の明かりがある。

その中の一軒の家に、豊は目を留めた。


 「…………」


 あの家――あの家は自分の家だ。無我夢中で逃げるうちに、いつの間にか自宅の近くまで来ていたようだ。

「た……助かった――」


 両手を膝につき、豊はほっと胸を撫で下ろした。

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