第十一話 坂野達明
ようやく仕事を片付け、駐車場に停めてある車で校舎を後にしたときは、町並みはすっかり暗くなっていた。
早く帰ってつまみでもやりながらビールを飲みたい気分的だった。
それにしても、しつこい母親だ――。
今日も懲りずにやってきた、一人の保護者のことを思い出し、坂野達明教諭は舌打ちをした。
植草樹という、自殺をはかった男子生徒の母親だ。息子はクラスメイトにいじめにあっていたのではと疑い、事実関係を調べてほしいとのことで、坂野教諭がどれだけ追い払っても諦めようとせず、また学校に足を運んできた。
そもそも、子どもに何かあったらすぐ学校側のせいにするのも気に食わない。増殖を続けるモンスターペアレントの対応には、いつも頭を痛めている。
植草樹もそうだ。よりにもよって学校の屋上などから飛び降りたことも、こんな厄介な事態を生んだ原因だろう。自分への当てつけか、嫌がらせか――いずれにしても性質が悪い。
片側二車線の国道に出る。すれ違う対向車のヘッドライトと三色の信号――まっすぐに伸びる単調な道は眠気を誘う。
ふと目を逸らし、何となくバックミラーを見る。
「――――?」
背後に、何かがいた――後部座席の辺りだ。人影らしく見える。
直接、振り向いて確かめる。何もいない。
見間違いないか――幽霊の正体見たり枯れ尾花というものだろう、そうに違いない。疲労のせいだ。
坂野教諭は、すぐに興味を失った。
先の方に踏切が現れた。遮断機はちょうど上がっている。
このまま一気に通り抜けてしまおうと、坂野教諭はアクセルを更に強く踏み、踏切の中に入る。
――と、車の速度が徐々に落ちてきた。アクセルを踏む足の力はゆるめていないのに、だ。
「ちっ――」
そして車はついに、踏切の真ん中で動かなくなってしまった。
「くそっ――エンストか」
よりにもよって、こんなところでするとは――運が悪いにもほどがある。
キーを回してみる――エンジンはかからない。
かんかんかん――警報音が鳴り、遮断機が下がりはじめる。
このままではまずい。早くどうにかして、踏切の中から逃れなければ。
急いでドアに手をかける――開かない。
「――え?」
ロックは外してある。開かないはずはない。
「開けっ――頼む開いてくれっ!」
全力を使っても、びくともしない。終いには体当たりと足蹴までしても、結果は変わらない。
遠くに電車のヘッドライトが見えた――死は確実にこちらへ近づいている。
窓の開閉もできない。殴り付けても割れない。
「出せ出せっ――ここから出してくれぇっ!」
坂野教諭は恐慌状態に陥る。その途端――
――車内の温度が、急に低下した。
「――――う」
冷気が閉ざされた車内に満ち、坂野教諭は寒気を覚えた。
何かがいる――気のせいではない。何か良くないものが、確かに車内にいる――。
「ひっ?」
誰かの手に、太ももをつかまれた。
反射的に振りほどいた拍子に、つかんでいた手のひらの皮膚が剥がれた。手は股の間に引っ込んだ。坂野教諭の視線がそれを追う。
股の間から、顔がのぞいていた。
少女の顔だった。全裸で、体中がひどく爛れている少女の――。
車体に細かい震動を伝わり、電車が目前まで迫っていることを教えた。
「――ま、前橋……」
坂野教諭は、今は亡き教え子の名前を、そう口にした。
そして、凄まじい衝撃と轟音が襲い――すぐにいっさいの感覚がもぎとられ、永遠に失われた。