プロローグ
――ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……。
水滴が落ちる音が、断続的に響いている。
――ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……。
それはまるで、栓の緩んだ蛇口のようだ。
――ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……。
松島栞は気が付くと、うつむいたまま立ちつくしていた。いつからそうしているのか――今がいつで、ここがどこなのかすら、判然としない。直前まで自分が何をしていたのか、
そしてどのような経緯で今の状態に至ったのか、なぜか完全に記憶から抜け落ちている。
黒ずんだタイルの床から顔をあげる。見えたのは白い壁――洗面台と鏡。左手にはずらりと並んだ個室。
ここはトイレ――小便器がないことから、女子トイレだろう。正面の突き当たりにある小窓の外は真っ暗だ。天井の蛍光灯は頼りなく明滅を繰り返し、いつ切れてしまってもおかしくはない。
栞は洗面台を右手に、入り口を背にして立っていた。
自分は女子トイレに用があって、その際に何らかの理由で記憶を失ってしまったのか――だがそれはいったい、どうしてなのだろうか?
疑問符ばかりが頭の中を飛び交うばかりで、何も思い出すことができない。
とにかく、手がかりが欲しかった。まずはどんな小さなことでも、記憶を蘇らせるための情報を得ることが先決だと、栞は判断した。
――ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……。
水滴の音は、いまだに止まらない。
奥から二番目にあるトイレの個室――音はそこからきこえていた。それ以外には、何の物音もしない。
唾液を呑み込み、栞は右足を踏み出した。夜の女子トイレに唯一聞こえる水滴の音は、彼女の不安を煽るばかりだった。どうせ大したことはないのだから、さっさと原因を確かめて、この不安を解消してしまいたかった。
右足の次は、左足を動かす。そうして緩慢ながら、確実に歩みを進めていく。
女子トイレの個室が、こんなにも遠く感じるときがくるとは、栞は思いもしなかった。
早まる心臓の鼓動を抑えるように、手を胸元に当てながら、栞は個室に近づく。
――ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……。
音源である個室のドアは、開かれたままになっていた。接近するにつれ、水滴の音はより大きくなる。
――ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……ぴちゃっ……。
少しずつ内部の様子が見えてくると、栞はつい視線を下げてしまう。確認をするには、心の準備がまだ不十分だった。
個室の前まで着き、栞は足を止めた。視線はそのままで、顔だけを個室に向ける。
便器の前に、小さな水溜りができていた。栞が見ている間にも、黄色い水滴が個室の床に滴っている。アンモニアの刺激臭が、彼女の鼻をついた。
徐々に視線をあげる――人の脚が見えた。スカートから伸びる少女の脚だ。宙に浮いた二本の脚を液体は伝っている。
水溜りは、少女の失禁によるもののようだった。
栞は更に顔をあげていく――力なく垂れ下がった両腕と、制服のブレザーが視界に入る。
そして、少女の首にきつく食い込んだロープ――全体重がかかったため、首が不自然に伸びている。
栞は完全に少女を見上げる形になっていた。今の彼女は、少女の死に顔を目にしているはずだった。
だがこのときの栞は、言葉を発することはおろか、まともに思考を働かせることすらままならなかった。
それほどまでに栞は、自分が見たものに大きな衝撃を受けていた。
少女の顔に、栞は見覚えがあった――いや、見覚えがあるという程度ではない。それは彼女自身が他の誰よりも、もっとも見慣れている顔に他ならなかった。
目の前で首を吊っているのは――紛れもない栞自身だった。
おぼつかない足取りで後退する。案の定、足がもつれて尻もちをつく。だが再び立ち上がるだけの気力が、栞に残されていなかった。それでも視線だけは自分の死体に釘付けで、逸らすことができない。
そして――栞は思い出した。自分が死に至るまでの経緯を。
喉が裂けんばかりに、栞は絶叫した。その声は無人の校舎に響き渡り、長く尾を引いた後にぴたりと止み――元の静寂を取り戻した。