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二〇一四年四月一日。

作者: 枕くま。

どうぞ「Baka」と発音してください。


■ 1.


 ある朝、僕は混乱と共に目を覚ました。聞き慣れた甲高い怒声が頭上から降ってきていたが、意味を理解するのに少し時間がかかった。しかし、理解が追いつく傍から声の主は部屋からいなくなっていた。声の主は母で、僕は母の八つ当たりのような仕打ちに漠然とした怒りを覚えないではなかったが、それを伝える前に母は玄関から飛び出して行ってしまった。残された僕はそのままだらだらと一時間ばかりベッドの上で過ごし、九時を過ぎたあたりでようやく起き出し、祖父母の待つ居間で朝飯を食った。二三お小言を頂戴しながら適当に返事をしてあしらうが、近頃祖母は耳がとてつもなく遠く、僕の声は届いていないようだった。そんな祖母を祖父は皮肉げになじり、聞こえない祖母は僕をなじり、僕は心を侵される前にそっと居間を出た。

 そのまま僕はまた自室に戻り、ベッドの上に帰り、携帯を弄っているうちに睡魔の野郎がやって来て、気がつくと三時間が経過していた。僕はまた寝ぼけた頭を掻きつつ、欠伸を噛み殺しながら居間に向かい、二度目の飯を食った。

「フォークリフトなんか、良いと思うんだけどねえ」

 祖母は安物のウィンナーを箸で転がしながら云った。

「取るのも簡単なんでしょう。あるとないとじゃ大違いだと思うんだ」

 そりゃそうだと思いつつも、僕が安っぽい言い包めに入る前に、祖父の声が飛んだ。

「お前がとやかく言うんじゃねえよ」

 僕は開きかけた口を閉ざし、米を口に運びながら、心と耳に同時に蓋をすることは可能かどうか試していた。黙々と飯を食っているうちに、目の前の二人はいつもの虚しい喧嘩まがいの応酬を終え、むっつりと険しい表情で米やらほうれん草やらを纏めて咀嚼していた。僕は空いた茶碗や皿を水に浸し、二人の余計な議論に苛まれる前に居間を出た。居間にいても、これっぽっちも良い事なんかないんだ。

 またまた部屋に戻り、面白くもないネット掲示板のやり取りを無関心に見つめたり、読みかけだった小説を手に取ってみたりして、午後も半分を過ぎた頃、ようやく決心をして車の鍵とウォークマンを取り、肩掛け鞄を掴んで部屋を出た。

 玄関で靴を履いている時、祖母がゆらゆらと現れて僕を見るだに、

「今さら行くのかいな」

 と云ったが、僕はまったく聞こえないような顔をして外に出た。



■ 2.


 屋根の庇護下から出ると、強い陽射しが僕を瞬時に暖め、熱っぽい空気の感触に自然と心の湿気た部分が乾いていくような気がした。それもオンボロの門を出る際にはまったく元の陰湿さを取り戻してしまったのだが。

 僕は何も気にしていないような顔をして近所の人たちの姿を確認するが、運よくその姿を見つけることはなかった。相手が若者だろうと老人だろうと、僕を見る人々の視線は無関心を装った軽蔑を含むような気がしてしまうのだ。田舎では僕のような人間にプライバシーも人権もない。すべてはあろうことか、信ずべき家族から漏洩していくのだ。攻撃されることに怯え、弱点を自ら晒すのである。そうして溜めたフラストレーションはそのまま上等の皮肉となって僕に帰ってくる。夕食後、食器を返そうと動けば「そういうことだけはきっちりするんだな」とか、今朝のように唐突に部屋に現れては「こんな豚小屋でよくも生活ができるものだ」などと云って、僕の耳から脳みそへ帰還するのだ。

 野晒しに放置している十七年ものの車(車種すら知らない)に乗り込み、キーを回して発進させた。BGMとしてイースタンユースの『青すぎる空』を流しながら、曲と運転に集中するよう心がけた。他に何も考えることのないように。

 車はまず目的地の道中にあるスーパーに立ち寄り、低価格の飲料を二本選んでレジに並んだ。今日から消費税が増税するとあって、昨日より明らかに客足は少なかった。おかげですぐに順番が来て、僕は恐ろしく空っぽの財布から二百円を出し、七十四円の釣りを受け取った。出入り口へ向かう際、二人の幼い子供が通路を閉ざすように向かい合って遊んでいた。ほとんど笑いながら云っているので、何を話しているのかまるで理解できなかったが、僕は邪魔をしないように通れないかと少し立ち止まった。

 すると、二人のうち女の子の方が何かを叫びながら拙いポーズを決めて一歩飛び出した。その隙に僕は背後をそっと抜けた。自分にも、あんな頃があっただろうかとありきたりでつまらない懐古に陥りそうになるが、過去を思い出しても、あの子達のように奔放にしていた記憶は欠片も見つからなかった。両親は他人へかかる迷惑を徹底的に嫌う性分だし、僕の姉は僕が子供らしくして両親の関心を得ようとするのを限りなく嫌悪していたから、僕の幼少期は緊張と悔しさ、羞恥のような最悪の記憶しか残っていない。

 小さな頃から人間関係に絶望し、誰とも関わらずにすむからという理由で実家の農業を継ぐと発言していた五歳の自分を思うと、なんとも云えない気分になる。現実の話、農業一つで食っていけるようになるにも、結局人間関係が途轍もなく重要な割合を占めてくるのだ。そもそも、うちは兼業農家であり、継ぐだのなんだのと云うような大それたものでないことを、中学に上がる頃まで、僕は知らなかった。

 そんなどうしようもない過去の話に気を取られているうちに、僕の右足に軽い衝撃があった。驚いてふり返るが誰もおらず、次いで視線を下げると右足の脹脛に先程の女の子がしがみついているのを見つけた。何事かと思い、大丈夫かと尋ねかけたが、不意に女の子が僕を見上げ、その大きな黒目がちの眼に映る自分を見、一瞬の間が空いた。女の子はにっこりと笑っていた。赤ん坊が身を守るために、無意識に行う生理的微笑を思わせた。

「大丈夫?」

と、僕がようやく言葉を発した時には既にもう一人の子の方へ駆け戻っていた。僕はほんの数秒、無様に立ち尽くしていた。女の子は二度と僕をふり返らなかった。

僕には女の子の意図が掴めずにいたが、足は勝手に出入り口を目指していた。何故だか早い速度で。店を出ると、また強い陽射しが容赦なく注いでいる。

 気持ちの悪い程に爽快な陽気に目を顰めながら、脹脛に残る微かな衝撃の感触を思った。意図などないだろうことは、初めからわかっていた。

 車中に戻り、今度はブラッドサースティーブッチャーズの『方位』を流す。ブッチャーズはイースタンユースと並ぶ、日本を代表するエモーショナル・ハードコアバンドだ。ネットにはそう書いてある。事実、そうなんだろう。けれど、僕にはそんなことはどうでもいいのだ。僕には何の関係もないのだ。



■ 3.


 目的地の閉まる時間は十七時十五分。現時刻は十五時半。どうせ検索して紹介状を願うだけなのだから、思い切り遠回りして行ってやろうと頭の片隅で馬鹿が騒いでいる。反対の隅っこで冷静な部分がそのまま直行すべきだと云う。僕はどちらの意見にも耳を貸しながら、とりあえず駐車場を出て行くことに決めた。

 五つの信号を奇跡かと思う程に青で通過していく。カーステレオはブッチャーズの『襟がゆれてる。』が終わり、次いで『散文とブルース』に切り替える。そこで、僕は自分の行動に呆れる。おいおい、ここで別のアルバムの曲に代える意図はなんだい? そのままにしておいても、どうせあと数分で到着だぞ。しかし、僕は切り替えてしまっていた。これはもう、どうしたものかなと思いながら左折し、踏切を越えていく。目の前に目的地を指す看板が見えてくる。このまま左折すればいい。だけど、僕の足はアクセルに乗ったままだ。一向にブレーキにかからない。あらあら、通り過ぎてしまったぞ。どうやら、馬鹿の意見が通ったらしい。

 僕は買ってきた緑茶を一口含み、そのままずっと、ずっと、直進を続けた。


 この先に海でもあれば、様になるのに。


『nagisanite』を聴きつつ、視界の左にそそり立つ木々と山の圧を感じながら、僕は思った。先に何があるのかはわかり切っている。ローカル線と近鉄線が交差するどこにでもある田舎の駅だ。もちろん、電車に乗ってどこかに行こうという気はない。財布には金がないし、ATMにもない。ただそこに行って、三秒も経たずに引き返すだけ。僕がいつもやる、つまらない時間稼ぎだ。時間の浪費だ。

 僕はただ直進して、駅に着くとやっぱりくるりと引き返して、そうして目的地に舞い戻ってきた。ハローワークとかいう、どうにも粘っこく陰湿な施設に。

 警備員に誘導されながら舗装すらされていない砂利敷きの空き地然とした駐車場に入り、大型の車の陰にそっと停車する。サイドブレーキを引き、エンジンをかけたまま僕はしばらくぼうっとしていた。カーステレオは『プールサイド』を流している。曲冒頭でボーカルが溢す愚痴のような語りが、太宰治の作品であることを僕は知っている。太宰は人間失格しか読んだことはないけれど、ただ知っていた。

 しばらくエンジンの唸りを耳にしながら、また携帯を覗く。まるで、何か急務でもあるかのように。これも時間稼ぎ・浪費の類だ。わかっていても、止められない。

 あまりに僕が出てこないためか、先程の警備員がゴミ拾いをする次いでに僕の車を覗きに来るまで、この悪足掻きは続いた。

 施設内に入ると、今度はすぐにトイレに行って用を足し、手を洗うのにも時間をかけて、そうしてようやく受付を過ぎて検索機と向き合うに至った。時刻は既に十六時を僅かに過ぎている。後は求人票を出して紹介状を貰い、家に帰るだけだ。

 新着の求人を中心に、自分の現在の状況に見合った情報を探る。

田舎の求人は驚くほど少なく、懇切丁寧に「死んでしまいなさい」と説得されているような気分になってくる。僕は徐々に現実色に染まる頭を抱え、うんうんと唸った後、不意に、ちょっとした気の迷いで、都会の求人を検索してしまった。僕が通っていた大学のある都市だ。タッチペンで、県名を選択し、検索結果を示す。

 ざっと、田舎の倍以上の求人票が並んだ。

 営業職が多かったが、都会というだけでその価値は十分にあると思えた。都会。かつて僕のような出不精の男でも、当然のように憧れた都会。昨年、己の現在の性質や、性格、許しがたい数々の不満点が僕から一層行動力を削いだ。家族への不信、己への不信。様々な要素が僕の脳内を取り巻いて、臆病を増長させた。その結果が、僕をこの停滞と鬱屈に支配された施設へ導くものと知りながら。

 僕は都会の求人欄をしばらく見つめた後、そっと詳細検索の欄から県名を削った。今の財政状況で、就職ができるかどうかもわからぬまま、都会までの交通費を工面することは難しい。たとえ就職できたとしても、それまでに一人で暮らす家を借りなければいけない。引越しもしなければ。それらが円満に解決するまで、企業が待ってくれるはずもない。落伍者たる僕には、この田舎がお似合いなのだ。そう思わないでは、やり切れない。

 それ以降も求人欄を探し続け、何とか妥協できそうなものを二つ選び、紹介状を貰った。以前紹介した企業から結果は出たかと訊かれたので、落ちましたと素直に応えた。



■ 4.


 駐車場に戻ると、僕のもの以外の車はすべてなくなっていた。警備員すら、いなくなっていた。僕は車に乗って一つ溜め息を吐き、ウォークマンを操作する。イースタンユースやブッチャーズも良いが、彼等の曲を聴いていると時おり、どうしようもない隔絶を感じる時があった。生きている世界が違うのだから、当たり前だと思いたいが、僕が考えるに、本気で向き合っているか否かということだろうと思う。彼等は素晴らしい音楽性と共に、その素晴らしい詩世界を武器にして、さらに本気で自分たちの世界と向き合っている。音楽を聴いているだけで、そうした事実が僕にでもわかってしまうのだ。

 それらはあまりにもギラギラと、鈍い光沢を放ち、僕を公然と見下ろす。

 そこで僕は久しぶりにTHEピーズの曲を聴くことにした。音楽の才能がなければただの屑野郎だと云われるボーカルのだらけたチンピラのような歌声が流れ、僕は満足してエンジンキーを回した。

 駐車場を出て、カーステレオから流れる『シニタイヤツハシネ』『実験4号』『とどめをハデにくれ』『やっとハッピー』『グライダー』『肉のうた』『日が暮れても彼女と歩いてた』に僕は云いようもない感慨を与えられた。このどうしようもない感覚。このどうしようもない人間は、僕自身でもあるのだ。

 そうしていると、信号待ちの間、リクルートスーツの一団を見た。皆輝かしい笑顔を公然と晒し、これからの未来に希望しか抱かぬ、それ以外は認めぬと云った風情で談笑している。硝子越しにそれを見せ付けられてしまった僕は、ようやく今日が四月一日であることを思い出した。新社会人の初出勤の日。全国の同い年の奴等は皆、そうなのだ。五日後の土日を楽しみに、正社員という当然でありながら尚他人に誇れる立場を得た彼等の門出の日なのだ。そして、昨年に僕があの苦悩と自己嫌悪と家族への怨みや不信に振り回されなければ、恐らく得ていた地位であり、恐らく享受していたはずの日なのだ。

 信号が青になり、僕はアクセルを踏む。

 彼等の喜ばしい顔など、一秒と見ていたくなかった。 

 車は進む、そのまま一本の長い道を走っていた。

 世界は山間に沈みゆく太陽に支配され、鈍く柔らかな赤色に照らしつくされていた。僕はただ車の部品の一つになった気持ちで、アクセルを踏み続けた。あてなく進んでいるように見えて、この道も知っている。この先には行きつけの散髪屋があり、さらに先には申し訳程度の工場地帯が広がっている。何もかも知っている。そんな世界を僕は生きているのだ。つまらないなと、当たり前の感想が浮かぶ。当たり前過ぎて、日常に過ぎて、僕の抱いたその言葉に温度は伴わなかった。

 カーステレオは相変わらずTHEピーズを垂れ流しにしている。どれを取っても自分のことが歌われているような気がしてしまうので、もうウォークマンに触れている必要もない。ほとんど聞き流すようにしていたそれだが、不意に歌詞の一節が耳から流れ込み、心に一握の感慨を浮かばせた。


『今、僕には景色が 何もかもきれいに写るよ とうとう見えるよ』


 きれいな景色。と来て、僕はなぜかあの女の子のことを思い出していた。あの黒目がちな大きな瞳に捉えられた僕は、確かにうろたえた。僕にはまぶしかった。彼女の幼さが、何も知らないという何もかもを得ている状態が、僕には素晴らしくまぶしかった。

 しかし、果たして僕は何を知っているというのだろうか。何も知らないのかもしれない。傷つくという以外、僕は何も知らないのかもしれない。それ一つを大事に、大仰に抱えて来たことで、昨年の僕が生まれ、今の僕に繋がる。

 

――――何も、知らないくせに。


 僕は今朝のことを思い出す。母のあの怒りを、八つ当たりのように感じたことを思い出す。考え方一つだなと、当たり前のことを思った。母がこれまで僕に賭けた金の数や、心配を思った。今朝の言葉を思った。

「皆、働いてるんだ。お前はその様でも、皆、働いてるんだ」


八つ当たりのように感じたあの感情は、エイプリルフールだ。


 あの感情は午前にだけ許される嘘の一つだったのだ。そう考えよう。そう決め付けよう。アクセルに乗せた足から僅かに力を抜き、僕は試しにステレオに倣って歌ってみる。それは滑稽にも最後の一節だった。


『まだ走るよ 生き延びるよ』


2014年4月1日当時のことだ。実際に僕の身に起きた出来事だけを繋ぎ合わせて小説にならないかと、試した物。馬鹿みたいになるようになってしまったけど、内容の出来不出来によらず、赤裸々キキララ過ぎて、身近の誰にも見せられないままUSBで腐っていた。恥も外聞も知ったこっちゃなくなったので投稿。むかしも今も、僕は大馬鹿野郎です。

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