七:無力な金、万能の銀
「すぅ……すぅ……」
静かな寝息を立てるリアは傍から見れば『正常』だ。この少年が『ブラット』に感染しているという事実を知っているものから見れば今のリアの状態は極めて異常だと言える。
助かる余地すら見つからない。
本来ならこの表現しか浮かばず、もし近くに誰かいるのならば間違いなく『絶望』で心を埋めることになるだろう。だが、この少年はそんな感情すら湧くことないほどに安らかに寝息を立てている。
『狸寝入りも難しいものだよね。リア?』
空間に響き渡る声は寝ている少年、リアのものだった。彼は寝ているが声は空間に響き渡る。矛盾した光景が室内を埋め尽くす。そんななか、ふとリアが目を開いた。
ベッドから起き上がることはせず、ただ天井を見つめる。そこにはシミなど一つもなく綺麗なものだった。ただ一点をのぞいて。
『あんな世界の影に喰われるほどオレ達は弱くないよね。だってオレ達は―――』
声はそこで消えた。消えるが早いか、天井に張り付いていた『骸骨』の図柄のカードはひらりとリアの胸元へ落ちてきた。カードを握り潰そうと右手に力を込めるが、右手どころか体全体に力が入らない。苦しげな表情をした後、リアは口元を綻ばせた。
「『世界』なんかに…選ばれなくてもよかったんですけどねぇ……僕は、つくづく道化のようだ」
そう言い終わったリアは、まるで懺悔をするかのように、まるで神に助けを求めるかのように必死に両手を合わせ、深く祈った。他の誰でも、自分でもなく、『喜劇』のために。
* * *
『風の玉』を上空に放り投げてから数分。未だに『闇』は球状を保ったままだった。さすがに常人の精神力ではこれ以上の『暗黒』は堪える筈、それでもアイアンとレンナの二人は『闇』をただ睨みつけるしかできなかった。
ツインテールの少女は『ブラット』の前で膝を折り、ただ祈っていた。神すら見捨てたこの都市で祈ったところでどうにかなるわけでもない。だがそれでも少女は祈り続ける、大切な仲間のために。
やがて痺れを切らしたのかアイアンが舌を打つ。それを見てたレンナも呆れた様子で溜息を吐く。
「遅いねぇリズは」
眼前に垂れ下がってきた前髪を優雅な仕草でかきあげ後頭部を壁に預ける形でレンナは上空へと視線を移す。
「一般人が巻き込まれるのは今回が初めてだからな…クソッたれ。気がのらねぇタダ働きだ……」
「あたいは二度目、かな。最初は教会のときにリーナって女が『呑まれた』よ」
後悔もなく、起こった事実を『第三者』のような立場で話すレンナ。たしかにそうだった。彼女はもう既に『ブラット』に『侵食』されたリーナしか見ていなかった。リアとリーナが接吻したところから彼女は『その物語』に加わったのだ。間違いなく彼女は第三者。だが、それでも彼女の台詞には違和感があった。
「毎度のことながら思うんだけどよ?」
「ん?」
レンナと同じような態勢で空を仰ぐアイアンは気を使う様子すら見せずに考えたことをそのまま口に出した。
「お前、『昔』っから死んだ奴とか殺された奴に対して思い入れしねぇよな。『ここ』に入る前になんかあったのか?」
一瞬、唇を噛むレンナだったが自嘲気味に笑う。
「ハハ。『昔』はイロイロあったさ。勿論、『イロイロ』ね。でも、『これ』はあたいの性格みたいなもんなんだよ。薄情とかヒトデナシとか言われるのももう慣れっこさ。でもさ、やっぱり死んだり殺されたりした奴をいくら想ったって帰ってくるわけじゃないだろ? 『レイン』だってそう―――」
言い終わる前にレンナは息を呑んだ。首の端に、剣が二本。音もなく壁に突き刺さっていた。どうやらアイアンの『逆鱗』に触れてしまったらしい。
ため息をつくこともせず、レンナは心の底から謝った。
「ごめんよ。今のは失言だったね。ごめん」
「あぁ。いや、悪ぃな、俺も訊きすぎた。悪ぃ」
自らの行動に非があったのを自覚していたアイアンはレンナの謝罪を打ち消すように謝り刺さった剣を奇術のように一瞬で消してみせた。
このままでは延々と謝り合戦が続きそうなのを二人は感づいていたのか、別の話題に変えようとする。
「………あのさ」
先に切り出したのはレンナ。しかし肝心の話題が出ない。息苦しい雰囲気が長く続いたことはいうまでもない。
ただリズを待つばかり、もうそろそろリズが到着してもおかしくはないほどの時間は経っていた。しかし、唯一の救いの道化がくる様子は未だにない。
* * *
場所は上空。空気中を漂う蒲公英の綿毛のようにリズは浮遊している、わけではない。彼は自分の持てる力を使い高速で『風の玉』が爆ぜた場所へと向かおうとしていた。だが一向に体が動かない。
まるでその空間に『隔離』されてしまっているかのようにも見える。腕を伸ばすが感触のない『何か』にあたり伸ばせない。
「何だ…これ?」
不可解な状況下でありながらもリズは冷静に状況を分析する。
有りえない『空間』。有りえない『能力』。在りえない『存在』。
目の前には『死神』が浮いていた。
* * *
「ふぅ。なんとか体は動きますね…まだダルイ感じはありますけど」
体の所々を触診しながら肉体の健康を確認するリア。本来、起き上がることすら出来ない筈の彼は今、普通に動いていた。
「さて、そろそろですね……っ!!!」
急激に襲う頭痛は視界を歪ませる。まだ『ブラット』の残滓が体に残っているのだろう。頭痛を払うように、頭を左右に振るが、それは痛みを増し鈍痛となってリアの頭蓋を揺さぶり続けた。
「『世界の影』ですか…それはどちらかと言えば『僕』のような気がしますよ。ねぇ? 『カミサマ』…」
ポケットにしまったカードを取り出し絵柄を見る。そこには、先ほどまで描かれていた『骸骨』ではなく、『二つの箱の前に立つ道化』が描かれていた。それは奇術を起こす前のような状態、とでもいえばいいのだろうか。一つの箱は『夜色』、隣には『無数の剣』。もう一つの箱は隣に『黒いローブを着た人形』が立つ『空色』の箱だった。
リアはただ一言だけ奇妙なことを呟いた。
「『奇術道化』………」
* * *
眼前は暗黒。周囲は静寂。自身は脆弱。覚えているのは『黒い鞭』を切り落とすのに体力的な限界を迎え、『黒い何か』に自分が飲み込まれたこと。
冷静にあたりを観察しようにもこう真っ暗では観察しようがなかった。
右足を動かすとカランと金属が転がる音がする。
手を伸ばすと指先に感触があった。妙にツルツルした鉄、刀だ。
一瞬、ヒヤリとしたものが指に当たったので反射的に指を引っ込めるがよく考えれば触っていたのは刀の『腹』にあたる部分だ。徐々に指先を柄に這わせる。
「それにしても…ここって何所ぉーー? 誰かー。誰かいませんかー?」
彼女、シャルトリューは声を出してみたが声が反響しないことがわかると、ここは狭い空間で自分は閉じ込められているのだと理解した。こんな状況でも恐慌状態にならないのは、単衣に彼女がエージェントを務めていて、極限の状態を体感したことがあるためだろう。
「周りには何もないしなぁ……うわっ!!」
呟きながら周りの『壁』らしきものに触れた瞬間、彼女は触れた左手を引っ込めた。感触がおかしかったからだ。
ザリザリした、何所か『凝固した血液』を思わせる感触だった。それに触れた左手を鼻に近づけ臭いを嗅ぐ。案の定、それは『鉄のニオイ』。ただの錆ならよかったがこれは嗅ぎ慣れた血の臭いだった。
「もう……早く誰でもいいから助けにきてぇ…」
震える声でシャルトリューは助けを求めるしかできなかった。