100 M'aider
まるで、底なし沼に沈んでいくような。
体の内側に異物が入っていくような。
自分の体が、自分のものではなくなっていく感覚。
とても気持ちが悪いのに。
それに身を任せることが明らかに楽だと、どこかで気づいてしまっていて。
このまま、抵抗するのをやめてしまえば良いのに。
生きることを放棄するように。
……だめ。
そんなの許されない。
自分の為に死ぬことなんて、誰も許してくれない。
自分の思い通りに動かせる場所はないか、自分の体をイメージしながら、探す。
何も見えないし、何も聞こえない。
全身を覆う不快感。
でも、この不快感は、どこかで体験したことがあるもの。
嫌なこと、嫌な思い出、思い出したくないこと……。
自分ではどうしようもないと、わかってしまったから。
取り返しがつかないと知ってしまったから。
もう、誰にも。
救うことなんてできない。
過去は取り戻せない。
あの時、あの時点では不可避だったこと。
忘れることなんてできない。
生きている限り、ずっと。
あの時、あの場に、自分が存在しなければ良かったのに。
あぁ、そういうことか。
忘れることなんて許されない、罪。
許しを請う相手はもうこの世には存在しない。
死んでも償うことが出来ないことをしてしまったから。
永遠にその罪と共に現世を彷徨う定めを負った者が、悪魔になるんだ。
このまま、堕ちていけば……。
「その罪が肯定される」
……なんで?
「人を、自然を傷つけ、神と戦い、精霊を滅ぼすことが悪魔の役目」
そんな役目、必要ない。
「この世界には、絶対悪となる敵が必要だ。恐怖とは支配する為のものではない。敵として存在することで、初めてその真価を発揮する」
アレクとは逆だな。
絶対的な正義とは真逆の存在、絶対的な悪。
「恐怖の対象となり、人を正しく導く存在となる。世界から求められる存在。これが、お前に求められた贖罪」
これが、罪を贖う方法?
「許しを請え。その魂を捧げ、その身を委ねよ」
許される……?
侵食されていく。
体が自分のものじゃなくなっていく。
深く沈んで。
意識が……。
本当に、悪魔になることが、俺の望むこと?
「違う!エルは、悪魔になりたいなんて思ってない!」
リリー?
そうだ。
俺は、悪魔に堕ちるわけにはいかない。
だって。
まだ、何もしてない。
俺は人間以外のものになるわけにはいかない。
だって、リリーの願いを叶えられるのは人間だけだ。
あの、愛しい願い。
あれを聞いてからずっと、叶えたいと思っていたから。
あれは、俺の望み。
希望。
「……」
たとえ、永遠に許されることがなくても。
最初から、それと共に生きていくしかないことはわかってる。
他のものに変わってしまえば、それはもう、俺じゃない。
俺が人間として間違ったことをしたなら、人間としてその間違いを背負うべきなんだ。
悪魔になることが、他の役目を全うすることが贖罪になるって?
争えば争うほど、破壊すればするほど、誰かを傷つけ、罪は重なるんだ。
その役目を遂行する為に新たな罪を作るなんて、余計に許されるわけがない。
大き過ぎる力なんて不要だ。
自然に反した存在になりたいなんて思わない。
俺を大切にしてくれている人たちは、皆。
俺がどんな人間であろうとも、俺を受け入れてくれたから。
ここから、這い上がらないと。
気を抜くと堕ちて行きそうになる。
苦しい……。
リリー、助けて。
動かせる場所は……?
それより先に、自分である場所を探さないと。
イメージして。
大丈夫。
この不快感を受け入れて、自分が別の存在にならない限り、必ず戻れる。
リリーが居る場所に。
「エル!」
……見つけた。
これって、体のどこだ?
何かに触れてる感覚だけがある。
あたたかくて、懐かしくて……。
絶対に離さない。
離してしまえば、二度と帰れなくなるような気がするから。
「エル」
リリー。
あぁ、これは俺の右手だ。
いつもリリーと繋ぐ手。
その温もりを感じる。
この感覚を頼りに……。
体中に纏わりつく泥のようなものから這い出るように。
体内を侵食する異物を吐き出すように。
「エルっ」
リリー。
もう少し。もう少しで……。
「……っ」
息が、苦しい。
『エル!』
『エルっ!』
「エル、」
全部、全部吐きだして……。
視界が色づいて。
体の感覚が戻って。
呼吸が落ち着いて……。
口元を拭う。
「エル、大丈夫……?」
「リリー」
真珠の肌と、輝く黒い瞳。
会いたかった。
リリーに手を伸ばして、その体を抱きしめる。
……帰って、来れた。
「ただいま」
リリーが俺にしがみつく。
「おかえりなさい」
……涙声。
また、泣いてる。
「泣かないで」
リリーが泣きながら首を横に振る。
「もう良さそうですね」
ローズ?
目の前を、見たことのある剣が横切る。
「エイルリオン……?」
何故か、慈悲の剣も置いてある。
なんで?
リリーを抱きながら、剣を鞘に戻す。
っていうか。リリーの髪型がいつもと違う。
良く、あの長い髪を完全に結い上げたな。誰が、こんな髪型に?
……マリーか。
リリーの後ろには、ローズとマリーが並んで立っている。
『エル、口開けてぇ』
口?
そういえば、前も言われたな。
『ふふふ。成功ねぇ』
「成功?」
何が?
まだ、夢と現実の間に居るような感覚が抜けない。
「何をしてたんだ?」
「リリーが……」
「秘密の儀式です。エルは知らない方が良いでしょう」
『そうねぇ』
かなり記憶が飛んでる。
そういえば、ここはどこだ?
壁の感じを見る限り、まだ教会の中に居るみたいだけど。
確か、俺は治療を行って……?
「エルの、ばか」
リリーが俺の胸に顔をうずめて、声を上げて泣く。
また、泣かせた。
「泣かないで」
リリーが首を横に振る。
泣きやみそうにないリリーの背を撫でていると、マリーがローズと目配せをして部屋を出て行った。
「リリー」
リリーの体を起こして、溢れる涙を拭う。
……あぁ。
リリーの体を引き寄せて、嗚咽交じりに震える肩をきつく抱く。
「ごめん。リリー」
泣かせたいなんて思ってないのに。
「無事で、良かった……」
腕の中に居るリリーの呼吸が落ち着いていく。
あったかい。
酷く寒いところに居たような気がするから。
夢だけど……。
どんな夢を見ていたのか……。
さっきまで見ていたものなのに、思い出そうとすればするほど、どんどん記憶が薄れていく。
それでも、強く記憶してることはある。
「来てくれて、ありがとう」
「うん」
「リリーが居るから、まだ、こうしていられる」
「そんなことないよ。エルが悪魔にならなかったのは、エルが悪魔になりたくないって抵抗していたからで、それから……」
何か儀式をしたみたいだけど。
「俺に必要だったのは、リリーだけだ」
「え?」
涙に濡れた輝く瞳を見つめる。
「俺が、この身も魂もすべて捧げて為すべきことは決まってるんだ」
あの時。悪魔になることから抗えた理由。
「リリーの夢を叶えたい」
「私の、夢?」
「約束しただろ?だから、俺は悪魔になるわけにはいかないんだ」
「エル……」
それが世界から望まれていることだろうと、それ以外に罪を償う方法がなかろうと。
俺はもう、リリーのものだから。
「エルじゃなきゃ、だめなの」
涙で震える声で、リリーが言う。
「わかってるよ」
もう一度、その体を抱きしめる。
……リリーが俺を選んでくれたから。
だから、まだ人間として生きていられる。
リリーに触れることのできる存在で居たいから。
リリーと同じ時を生きられる存在で居たいから。
それは、人間じゃないとできない。
でも。
夢の中で聞こえた声。
リリーのものだとはっきりわかる声以外にも、何かの声を聴いた気がする。
あれは、誰の声だ?
あの声……。
だめだ。思い出せない。
記憶を辿ろうとすればするほど、離れていく。
絶対に聞いたことのある声なのに。
……聞いたことのある声?
本当に聞いたことがある声だったとしたら、そんなことが出来る奴は一人しか居ない。
人間の脳に直接語りかけるような声を出せる奴。
あいつが、魂を穢し、人間を悪魔に変える力を持ってる?
有り得ない話しじゃないけど。
だったら、あいつは今、俺の近くに居るのか?




