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旧作3-1  作者: 智枝 理子
Ⅶ.紅血の源
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144/149

154 錬金術師と弦

「おはよう」

「おはよう、キャロル」

 台所のテーブルで本を開いていたキャロルが顔を上げる。

「おはよう。エル、リリー。その服、とっても素敵ね」

 リリーが着ているのは、この前、一緒に選んだ可愛い服だ。

「……ありがとう」

 リリーが俯く。

 この調子で、積極的に着てくれたら良いんだけどな。

「ブリジットが、昨日の余りで、ブールグラタンを作ってくれたのよ。オーブンで焼くから待っててくれる?」

 くり抜いたブールには、もう余りのソースが入ってるんだろう。

 鉄板の上に用意されたブールに、キャロルが仕上げのチーズを載せてる。

「コーヒー淹れるね」

 リリーがコーヒーの準備を始める。

「キャロルは、もう食べたのか?」

「当たり前でしょう。さっき、片付けが終わったところよ」

 少し寝坊したな。

 サイフォン用のランプに火を付けると、リリーが笑顔を向ける。

「ありがとう」

 ブールグラタンの方も準備は出来た。

 キャロルが持ち上げた鉄板を横から取る。

「貸して。後は、自分でやるから良いよ」

 チーズの乗ったブールを、まだ温かいオーブンの中へ。

「食べたら、音楽院に行こう」

「今から?ルイスは、エルに課題を見てもらいたいみたいよ」

 もう出来たのか。

「じゃあ、出かけるのは午後にするか」

「そうしましょう。私、リリーに相談があったの」

「私に?」

「今度、ジニーと一緒にお菓子を作ろうって話になってて……」

「えっ?」

 テーブルの上には、菓子の本が置いてある。

 ジニーと作る菓子を考えてたらしい。

「余計なものが入らなくて、絶対に失敗しないお菓子ってある?」

 ……ジニーは、レシピに無い余計なものも突っ込むのか。

 スコーンをサブレって言い張るような相手だからな。錬金術師の癖に計量もろくに出来ないなんて致命的だ。

「あ。ガトーショコラは?材料も基本的なものしか使わないし……。混ぜて焼くだけだから失敗も少ないと思う」

 チーズの良い匂いがしてきた。

「良いわね」

 オーブンを開くと、香ばしい焦げ目がついてる。これぐらいで良いだろう。

 ミトンを付けて、オーブンから出して。テーブルに並べる。

「ここにある材料で作れるかしら」

「小麦粉、砂糖、卵、バターとショコラだよ」

 菓子の定番の材料だ。

「ショコラって、あるのかしら。ブリジットに聞いてくるわ」

「うん」

 キャロルが走って行く。

 朝から元気だな。

「コーヒー、入ったよ」

 リリーがテーブルにコーヒーを並べる。

「じゃあ、食べよっか」

「あぁ」

 

 ※

 

 朝食を終えて、ルイスの居る研究室へ。

「おはよう。ルイス」

「おはよう、エル。朝食は食べたの?」

「あぁ。出かけるのは午後になった。課題は終わったのか?」

「うん」

 まずは、エリクシール。

 液体を光に透かす。

「良い出来だ」

 昨日のより不純物も少なくて完璧と言って良い。

「良かった。……それ、店売りできるぐらいの出来?」

「もちろんだ」

「じゃあ、持って行って」

「持って行く?」

「勇者の仕事に」

 ……勇者の話し、聞いてたのか。

「わかった。使わせてもらうよ」

 エリクシールを荷物の中に仕舞う。

「いつ行くの?」

「明日だよ」

「やっぱり。……二つ目の課題は、これだよ」

 俺が明日行くと思って、課題を急いだのか?

 テーブルの上には、瓶やケースが並んでいる。

「何を作ったんだ?」

「まずは、風邪薬」

 見た目は、普通のシロップ状の風邪薬。

 レシピを見る。

 ……変わった配合だ。

 一般的に風邪薬と呼ばれているものは、病気の治癒ではなく症状の緩和を目的としている。病気への過剰な反応を緩和し、自然治癒を目指すのだ。

 個別の症状に合わせて調合しない限り、薬屋で売られる一般的な薬の内容は同じなんだけど。

 このレシピは、咳よりも鼻風邪の症状の緩和に特化していて、甘味が加わっている。何より、量が子供向けだ。

「子供用の薬?」

「そう。店に来るお客さんは、大人向けの薬の半量を子供にあげてるって聞いたことがあって」

「なんだって?」

 そんな使用法は存在しない。

「僕は勧めてないやり方だよ。でも、そうやって使ってる人は多いみたいなんだ。それなら、最初から子供向けに、簡単で安全に使える風邪薬もあって良いと思って」

「鼻風邪に特化させたのは?」

「症状を聞いて多かったからだよ。それに、この薬で治らないなら、医者にかかる目安になると思ったから」

「経験から選んだのか」

「後は……。キャロルにいつも作ってる薬だからね」

 飲みやすくしたのも、子供向けの薬を選んだのも、キャロルの為か。

 ルイスの頭を撫でる。

「良く出来たな。合格だ」

『ふふふ。流石、ルイスねぇ』

「ありがとう」

 これぐらいなら副作用も低いし、素人の判断でも使えて、風邪の症状緩和に役立つ。使える年齢は限られるけど、あったら喜ばれることは間違いない。

 完全に、俺が作ったことのない薬。

 満点だ。

「他にもあるんだよ。こっちは、手荒れに効く薬なんだ」

「手荒れ?保湿剤か?」

「うん」

 ケースの中身はクリーム状の保湿剤。香りも良いな。

「ミーシアの木の実は知ってる?」

「ミーシア?」

 どこかで聞いたような……。

「ブロマ島にある木でね。この実から作られる油脂は、代理バターって呼ばれてるんだ。これは、ショコラを作る時にカカオバターの代用として使われることに由来するんだけど……」

 思い出した。

「あれか。カカオの関税撤廃から、安い代理バターを使ったものが流通して……」

 安価な代理バターは、他国ではショコラの素材として一般的なものらしいけど。ラングリオンでは、古くからカカオバター以外の油脂を使うとショコラと名乗れないと法律で決まっている。

「何年か前に、一斉摘発されたんだったな」

「そう。その時に、代理バターや油脂が大量に押収されたんだ。でも、一般的な油脂はともかく、代理バターの使い道が見つからなくて。新しい利用方法の研究は、錬金術研究所に任されることになったんだ。研究所は、広く市民から案を募集することにして、代理バターを無料で配ってるんだよ」

 ショコラ製造の為だけに輸入されていたものなら、既存の転用先はない。新しい使い道を考えなくちゃいけないわけだけど……。

 研究に興味を持つ奴が一人も居なかったから、案を募るって形で余った代理バターを無料で配ってたんだろう。摘発から今まで何も変わってない所を見ると、完全に忘れ去られてる案件なんだろうな。

 でも、植物性の油脂なら保湿剤に向いてるのは確かだ。

「それで、これだけの量を、一日で作ったのか?」

「違うよ。研究を始めたのは結構前。代理バターはいくらでも貰えるからね。試作を重ねて作った一番新しいのがこれなんだ。キャロルの評価もブリジットの評価もすごく良かったよ。これも課題に使えた?」

「もちろん。製作者として名簿に載れるぐらいのレシピだ」

「名簿って?」

「いつも読んでる薬図鑑のレシピには、開発者の名前がすべて載ってるだろ?」

「うん。エルの名前も、カミーユたちの名前も載ってるよね」

 ラングリオンの薬学の歴史は、錬金術研究所に薬学専門の研究室が出来てから一気に変わったからな。

「図鑑に載ってるレシピは、ラングリオンで薬屋の資格を取得した者が自由に作成、販売できるレシピなんだ。研究所で開発されたレシピはもちろん、国が個人から買い取ったレシピも図鑑に載る。優秀なレシピの開発者には、個人向けの研究費も融通されやすくなるし、国から勲章を賜れれば年金も貰えるようになる」

「そんなにすごいんだ」

「あぁ。子供用の風邪薬は買い取って貰ったら良い。でも、保湿剤は自分の店の独占販売にした方が良いかもな」

「僕は、保湿剤の方も売って良いけど」

「国が評価するのは、公共の福祉にいかに貢献するかどうかだ。保湿剤が高い評価を得る可能性は低い。薬屋として利益を出すレシピとして取っておいた方が良いよ」

「わかった」

 申請手続きは、どうするかな。

 養成所、錬金術研究所、役所で出来るけど、どこも休日は休みだ。

「レオナールの所なら、休みでも手続きが出来るかもしれない。ついでに、その試作品をマリーたちにも配るか」

 マリーに頼めば、宣伝してくれるだろう。

「レシピ、綺麗に書き直した方が良い?」

「向こうでやれば良いよ。行くぞ」

「待って、キャロルとリリーシアに言ってからにしないと」

「そうだな」

 

 ※

 

 台所に寄って、リリーとキャロルにオルロワール家に行くこと、昼までに戻ることを伝えて、オルロワール家へ。

 ロジーヌに話すと、レオナールの執務室に案内された。

「いらっしゃい。エル、ルイス」

 部屋に居るのは、レオナールとグエンだけ。

 休みでも仕事してるのは相変わらずだな。

「ルイスが開発した新薬の登録申請をしに来た」

「新薬?……座って」

 ルイスと一緒にソファーに行くと、向かいにレオナールが座る。

「これだ」

 レシピと風邪薬を見せる。

「子供用の一般風邪薬か。そういえば、今までにないものだね。これは、国に提供するレシピで間違いないかな」

「はい」

「ありがとう。このレシピは、錬金術研究所で安全性の確認を行うよ。認可されれば国から報奨金が支払われ、君の名前と共に最新のレシピ図鑑に登録される。申請書はこちらで準備するから……」

「どうぞ」

 グエンが用意した書類を受け取る。

「その書類を読んで待っていてくれるかい」

 知ってる内容だな。

「ルイス、読んでおいてくれ」

「うん」

「グエン、これを書き起こしておいてくれるかい」

「紅茶の御用意はどうしますか?」

「僕がやるよ」

「わかりました」

 グエンが書類を持って行って、レオナールが紅茶の準備を始める。

「メイドは居ないのか?」

「部屋付きメイドを置くのを止めたんだ」

「なんで?」

「グエンが居れば十分だからね」

 理由になってない。

「グエンがレオナールの補佐をするなら、接客用のメイドは必要だろ」

「来客時は、客人に合わせてロジーヌがメイドを用意するよ」

 俺たちは、接客用メイドが必要ない客ってわけか。

 レオナールが紅茶セットをテーブルに置く。

「飲み頃までは、もう少しかかりそうだね」

 砂時計が、さらさらと落ちていく。

「もう一つ、ルイスの試作品がある」

 テーブルの上に保湿剤を並べる。

「手荒れに効くクリーム状の保湿剤だ」

「使っても良いかな」

「あぁ」

 レオナールが保湿剤を手に塗る。

「良いね。これ。乾燥する季節には丁度良い」

「手荒れ用だぞ?」

「要はハンドクリームだよね。日常的に使用するものなら、薬ではなく化粧品の扱いでも売れるよ。いくらだい」

 確かに、あのレシピなら雑貨の扱いで済むか。

「まだ試作段階で、売りに出す予定はない。ルイスが店をやる時の看板商品にする予定なんだ。マリーにも渡しておいてくれ」

「良いけど、欲しがられたら何て言えば良いのかな」

 あり得る。

 どうするかな……。

「ルイス、試作品って、後どれぐらいある?」

「え?うーん……。参考になる意見を貰えたら、優先して渡すよ」

 上手い返しだな。

「だってさ」

 レオナールが苦笑する。

「ルイスはすごいね。例の病の時にも活躍したって聞いているよ。こんなに優秀な子なら、養子として迎えたいぐらいだ」

 どういう意味だ。

「人の子供を物みたいに扱うな」

 ルイスは俺の家族だ。

「悪かったね。……この前、渡した書類は、ちゃんと書いたかい」

 カミーユに書いて貰った書類。

「シャルロに預けてある」

 戻って来たグエンが、レオナールに書類を渡す。

「レオナール様、どうぞ」

「ありがとう。グエン」

 もう仕上げたのか。

「紅茶をお淹れ致します」

 レオナールが出来上がった書類を確認している横で、グエンがカップに紅茶を注ぐ。

 主人に給仕をさせない為に、仕事を早く終わらせたのか?

 グエンが紅茶を並べた後、急に、俺に向かって頭を下げる。

「エルロック様。申し訳ありません」

 ……何が?

「レオナール様も、悪気はないのです」

「何の話だ?」

「先日、生涯に渡って御結婚の御意思がないことを伯爵に訴えられた際、出された条件が養子を取ることだったのです」

 さっきの養子の話しか。

 俺が怒ってるように見えたらしい。

「別に、怒ってないよ」

 レオナールだって、本気で言ったわけじゃないだろう。

「伯爵と喧嘩するなんて珍しいな。結婚の話しなんて、急いで決めるような話じゃないだろ」

 いずれ誰かと結婚する可能性もあるんだし。伯爵もレオナールも、将来を決めつけるには早過ぎる。

「僕は、今の法律では結婚しないと決めているんだ」

「法律?」

 何で、法律が……。

 レオナールが微笑んで、グエンを見る。

「僕の生涯の伴侶は、彼と決めているから」

「……レオナール様」

 あぁ、そういうことか。

 ようやく腑に落ちた。

「このご時世に、わざわざ侍従として囲ってるのは、伯爵に命令されない為か」

「そうだよ。父に恋人として紹介したら、すぐにグエンと引き離されてしまってね。父は、時が経てば僕たちが別れるとでも思ったようだけど」

 オルロワール家には結構出入りしてるけど、グエンダルには最近まで会ったことがない。

 ……どれだけ長い間、離されてたって言うんだ。

「父も、ようやく僕の考えを曲げることは出来ないって気づいたみたいでね。……僕たちの関係を認める代わりに出した条件が、オルロワール家に相応しい養子を取ることだったんだよ」

 ルイスが、俺の腕を掴む。

「ルイスは渡さないぞ」

「わかっているよ。怖がらせて、ごめんね。僕らは、幸せな関係を引き裂かれる痛みを知っている。望まない相手を無理に迎えるようなことはしないよ」

 隣を見ると、ルイスが安心したように息を吐いている。

「法に関しては、俺がアレクに掛け合ってみる」

「アレクシス様に?」

「子供は道具じゃない。無理やり養子を取れなんて、伯爵の考えは横暴だろ。今の婚姻制度を変えれば結婚出来る」

 レオナールが笑う。

「面白いね。期待して待っているよ」

「あぁ。……っていうか、書類の申請はこれで終わりか?」

「もう少しあるよ。内容に問題が無ければ、ここにサインを書いてくれるかい。ルイスは未成年だから、保護者のサインもね」

 内容は……。

 いつもの申請書類だ。特に問題はない。

 保護者の署名欄に名前を書いて、ルイスにも署名をしてもらう。

「これで申請は完了だよ。受付完了の書類も渡しておくから、失くさないようにね」

 レオナールが書類をルイスに渡す。

「君は、ラングリオンの未来を担う貴重な人材だ。困ったことがあったらいつでも相談においで。力になるからね」

「はい」

 

 ルイスを連れて、オルロワール家を出る。

「ありがとう。エル」

「何が?」

「僕を養子に出すって言わないでくれて」

「当たり前だろ」

 なんで自分の子供を差し出さなくちゃいけないんだ。

 それに、ルイスとキャロルを任せる相手は決めてる。

「俺が居ない間、困ったことがあったら、カミーユを頼れ。シャルロにも話してある」

 今までも面倒を見てくれていたし、カミーユとシャルロの方がルイスも頼りやすいだろう。

「さっき言ってた、シャルロに預けた書類の話し?」

「そうだよ。後見人になってもらうよう、話を通してある」

「え?」

 ルイスが立ち止まって、俺を見上げる。

「どうして?」

「俺に何かあった場合、保護者も後見人も居ない子供は国に保護される。そうなれば、二人がばらばらにされ……」

「そうじゃなくって!」

「……ルイス?」

「エルは、そんなに危ないところに行くの?また、僕たちは親を亡くすかもしれないの?」

「違う」

「じゃあ、どうして?どうして、こんなタイミングで、そんな書類を書くの?」

 ……カミーユにも言われたな。

「本当は、もっと早くにやるべき手続きを忘れてただけだ」

「本当に?」

「当たり前だ」

 ルイスの頭を撫でる。

 不安にさせてごめん。

「出来るだけ早く帰って来るよ」

 あいつをどうにかして、すぐに帰って来る。

「わかったよ。でも、一つだけお願い」

「何だ?」

「今回は、ちゃんと見送らせて」

 見送りか。

「出発は、明日の朝一だぞ」

「わかった。キャロルと一緒に、陽が昇る前に起きておく」

「なんで、そんなに早起きする必要があるんだよ」

「エルは、いつも勝手に行っちゃうからね」

『そうだな』

 そういえば、セルメアに出発する時も、ルイスは、かなり朝早くから起きてたみたいだったよな。

「今回は、太陽が出てから出発するよ」

 どうせ準備にも時間がかかるし。

「そうなんだ。じゃあ、少しのんびりできそうだね」

 ……まったく。

 どれだけ早く起きるつもりだったんだよ。

 

 ※

 

 ガラハドの屋敷に戻って、ブリジットが作ったショートパスタの具沢山バジルソースを食べる。

 バジルソースのレシピは、ブリジットが教えてくれたのが一番美味い。具材は、ゆで卵、ブロッコリーにじゃがいもで、かなり重たかったけど。

 ……そのせいで、リリーとキャロルが作ったプチガトーショコラまでは食べきれなかった。後で食べよう。

 

 ※

 

 昼食を終えて、音楽院へ。

「ようこそ。エルロック様とリリーシア様ですね」

「はい」

 俺たちが来ることは連絡済みか。

「ユリアは居ますか?」

「申し訳ありません。御嬢様は、昼食会にご出席中です」

 大陸会議の間中、貴族は忙しいだろうな。

「このバスケット、ユリアに渡してもらっても良いですか?中にプレゼントのお菓子も入ってます」

「承りました」

 受付嬢が、傍に居たメイドにバスケットを渡す。

「では、本校を御案内致しましょう」

「案内は要らないよ。こっちで見て回る」

 案内板もあるし、迷わないだろう。

「あの、声楽は、どこで見学出来ますか?」

「声楽科は西棟にございます。本日は休日で授業は行われておりませんが、多くの卒業生や音楽家たちが集まっておりますから。御自由に御見学ください」

「ありがとうございます」

「器楽科は東棟になります」

 バイオリンは、逆側か。

 先生も向こうに居るんだろう。

「じゃあ、別行動ね」

「なんで?」

「だって、エルはバイオリンの方を見てくるんでしょう?」

「キャロルが勉強する場所を見るのが先だ」

「私だって自由に見て回りたいもの。リリー、エルをお願い。行きましょう、ルイス」

「そうだね。こっちの見学が終わったら、そっちに行くよ」

 自由に、か。

 もしかしたら、声楽以外にも興味を持てるものが出るかもしれない。

 子供だけで見て回るのも良いだろう。

「わかった」

「うん。後でね」

 ルイスとキャロルを見送る。

 そうだ。

「ピアノも東?」

「はい。ピアノ専攻の生徒が学習する場所は、東棟にございます」

「ん。わかった」

 リリーの手を引いて、東に向かう。

「どうしてピアノを聞いたの?」

「空いてるピアノがあったら、一緒に演奏出来るだろ?」

「先生に会いに来たのに?」

「それはそれ」

 リリーと一緒に演奏するのは楽しいから。

 

 ※

 

 東棟に行って、階段を上る。

 ピアノ教室は二階。

 上の階からはバイオリンの音色が聞こえる。

 ……懐かしい。

 聞き覚えのある音色に混ざって、複数の話し声や足音、そして、違うバイオリンの音色も聞こえてきた。先生が公開指導でもしてるんだろう。

「行かないの?」

「後で良いよ。ピアノ教室は静かだし、今の内に演奏しよう」

 近くの部屋を開いて、中に入る。

「勝手に使って良いの?」

「良いんじゃないか?」

 ピアノが一台と、椅子がいくつか置いてある。

 個人指導用の部屋かな。

 暗い部屋のカーテンを開くと、さっきよりも部屋が明るくなる。

「可愛いピアノ」

 装飾より、実用性を重視してる造りに見えるけど。リリーから見ると可愛いらしい。

 棚にはピアノの楽譜が並んでる。

「何を弾く?」

「何でも良いよ」

 鍵盤にかかっていた布を外して、リリーが椅子に座る。

 少し高そうだな。

「調節するか?」

 リリーが周りを見渡して、別の椅子を持ってきて座る。

「この椅子を使うから大丈夫」

 そう言って、早速ピアノを鳴らし始めた。

 ……楽譜を探す必要はないか。

「スプリングソナタをやろう」

「うん」

 リリーが好きな曲だから。

 バイオリンを出して、準備をして。

 すぐに、一緒に演奏を始める。

 ……明るくて透き通るような綺麗な曲だ。

 

 ※

 

 第四楽章まで、楽しく弾けた。

 リリーと一緒だと気持ち良く弾けるな。

『エル』

『お客さんが来てるみたいよぉ』

 客?

 振り返ると、扉が開く。

「先生」

 以前と変わらない優しい笑みだ。

 でも、足が……。

「美しい演奏だった。以前よりも明るく美しい音色を出せるようになったようだね」

 松葉杖を突きながら、先生がこちらに来る。

 後ろからバイオリンケースを持った子供が付いて来て、先生に椅子を勧めた。

「君とは、何を練習するんだったかな」

 先生がバイオリンを用意する。

 最後に出されてた課題は……。

「二台のバイオリンの為の二重奏曲」

 先生が微笑んで頷く。

 ……覚えてたんだ。

「全然、練習してない」

「君のことだ。楽譜は頭に入っているね」

「覚えてるけど……」

 先生が、目の前でバイオリンを構える。

 楽譜を思い出して。

 最後に練習したの、いつだったかな。

 ……ん。一通りはやれる。

 バイオリンを構えて、先生と視線を合わせる。

 呼吸を合わせて。

 先生の合図に合わせて音を鳴らす。

 序盤は、以前も上手く合わせられた。

 でも、この先は……。

 最後にやった時は、音の大きさのバランスも取れないし、リズムも上手く合わせられなくて、合奏と言える仕上がりにはならなかった。

 ……なのに。

 不思議だ。

 今は、安心して落ち着いて弾ける。

 音が重なって調和する。

 まるで一人で弾いているかのように離れて、そして、戻って重ねて。

 繰り返す。

 ……こんなに綺麗な曲だったのか。これ。

 

 第一楽章が終わる。

 ……楽しかった。

「今日は、ここまでかな。二楽章は、次の機会にしよう」

「はい」

 次までに練習しておかないと。

「まだ弾き足りないだろう。久しぶりに演奏してくれるかな」

 演奏……。

 何にするかな。

「リクエストは?」

「では、妖精の踊りを頼もうか」

「妖精の踊り?」

 アレクが得意な曲だ。

「リリー、弾けるか?」

「えっ?」

 知らない曲だったか?

「えっと……。楽譜を見ても良い?」

「あぁ」

「御用意致します」

 先生の付き添いの生徒が棚へ向かう。

 妖精の踊り……。

 楽譜は知ってる。でも、運指も演奏の仕方も何もかも、アレクが弾いた時のイメージしかない。

 上手く弾ける気がしない。

「どうぞ」

 リリーが楽譜を確認してる。

 曲を思い描いて……。

 足を鳴らしてテンポを刻む。

 これぐらいの速さか……?

「エル、準備できたよ」

 リリーの方を見る。あの生徒が譜めくりもしてくれるらしい。

「あの、あんまり自身が無いから、途中で間違えちゃうかもしれないけど……」

「良いよ」

 俺も自信がない。

 バイオリンを構えて。

 リリーに視線で合図を送ると、リリーが弾き始める。

 いつもアレクが奏でているような聞き慣れた音が酷い違和感でバイオリンから出る。

 ……途端に。

 音楽が崩れた。

 呼吸が合わなくて、お互いに演奏を止める。

「ごめんなさい」

「いや。俺が焦り過ぎた」

「ごめんなさい……」

 リリーが謝る必要なんてないのに。

 楽譜を見直したリリーがピアノの上に指を置く。

 ……こんな状態じゃ、弾けない。

「リリー。ピアノだけで、少し弾いてくれないか?」

「え?」

 リリーが少し迷ったように視線をピアノに向けて。

 そして、頷く。

「わかった」

 良かった。

 じっくり楽譜を眺めた後、リリーがピアノを弾き始めた。

 その音にバイオリンの音色が乗るイメージを重ねる。

 ……違う。

 アレクの演奏のイメージには、全然合わない。

 だめだ。まだ、アレクの演奏を丸ごと覚えてる。

 演奏の仕方を変えないと。

 リリーが奏でるピアノのイメージは、いつも透き通るような美しい音色だ。

 この音色と上手く調和する演奏……。

「リリー」

 俺の声に気付いたリリーが手を止めて顔を上げる。

「もう一回、そのリズムで弾いて」

「うん。わかった」

 リリーが柔らかく微笑む。さっきよりも緊張が解けたみたいだ。

 これなら行ける。

 バイオリンを構えて、もう一度合図を送る。

 次は、合わせて弾ける。

 ピアノの音に引かれて、バイオリンの弦を震わせる。

 こんなに激しい曲で、こんなに耳障りの良い優しい音が出せるなんて……。

 ピアノの音がバイオリンの音に絡む。

 

 少しぐらい遅れても良いから、その綺麗な音を響かせて。

 全部、音で取っていくから。

 これなら最後まで進める。

 

 ……あっという間だ。

 演奏が終わってバイオリンを下ろすと、先生が拍手をしてくれた。

 開きっぱなしの部屋の外からも拍手が聞こえる。

 いつの間に、こんなに野次馬が来てたんだ。

「新しい演奏の仕方を切り開いたようだね。音楽の世界は深いだろう。こちらの道に進む気はないのかな」

「先生から教わることがなくなったら考えてみるよ」

「ふむ。まだあったかな」

「まだ二楽章の運指を教わってない」

 先生が笑う。

「では、次の機会に教えるとしよう」

 先生がバイオリンを片付けて、杖を持つ。

「その足は……」

「少しばかり不自由だが。これもまた、私が重ねてきた勲章の一つだよ」

 まだまだ現役だな。

 

 学生の頃を思い出す。

 養成所のバイオリンの授業の話だ。決まった運指通りに弾かせる指導が気に入らなくて教師と口論になった際に、フラーダリーから借りていたバイオリンを落としてしまった。すぐに教師が見てくれたけど、修復は絶望的。新しいものを用意するしかないと言われた。

 バイオリンは高額で、とても子供が買えるようなものじゃない。フラーダリーに謝罪の手紙を書いて。一人で楽器店のバイオリンを眺めていた時に出会ったのが、先生だ。

 落ち込んでいた俺に声をかけて、馴染みの工房に連れて行ってくれて。その縁で、弟子になることになった。

 それから間もなく、フラーダリーが用意した新しいバイオリンが届いた。

 先生が持つバイオリンと同じ職人が作ったバイオリン。

 きっと、すぐに仲良くなるだろうと先生が話してくれた。生涯の相棒になると。

 その言葉通り、今もこのバイオリンを使い続けている。

 気さくでのんびりした人だったから、まさか、こんなに有名なバイオリニストだったとは思わなかったけど。

 ツィガーヌをはじめとして、色んな曲を教えてくれた俺の師だ。

 

 ※

 

 音楽院を存分に見て回ったルイスとキャロルと合流して、夕食を食べた後は、早々に帰って寝る支度をする。

 まだ目が冴えているけれど、明日のことを考えると、もう寝なきゃいけない。

 紅茶とプチガトーショコラを準備して部屋に戻ると、リリーが寝間着姿で準備運動をしていた。

 少し待つか。

 ……でも、砂時計の砂が落ちて、紅茶をカップに注いでも、まだ終わる気配がない。

「紅茶が冷めるぞ」

「……うん」

 ようやく動きを止めたリリーが頷く。

 そして、ベッドの向かいに椅子を持って来て、紅茶を飲む。

「眠れないのか?」

 リリーが頷いて。

 椅子の上で足を折り曲げて、膝の上に額を付ける。

「怖いような気もするし、楽しみな気もするの。戦いに行くのに。命のやり取りになるかもしれないのに。……気持ちが、落ち着かない」

 緊張してるのか。

 リリーが顔を上げる。

「エルは、平気?」

 いつもより気分が高揚してる気はするけど。

「リリーとの勝負よりは、緊張してないよ」

「……えっ?」

 あの時の方が、緊張感はあった。

「あの、明日は、私よりずっと強い人と戦いに行くんだよ?」

「強いかどうかなんて戦ってみなきゃわからないだろ。今のところ、負ける要素はない」

「何してくるかわからない相手なのに?」

「まず、魔法に対する心配はしなくて良い。神の力は大精霊に吸収してもらえる。それを潜り抜けて放たれた魔法があったとしても、俺とリリーの装備ならダメージを食らうことはない。魔法に関しては、こちらに分があるんだ」

 こちらから使う魔法に対して、あいつがどんな手段を構築しているかは未知数だけど。普通の人間と同じように反対属性で相殺しようとしても大精霊に阻まれれば攻撃は通るだろう。何より、あいつは真空の魔法を持っていないし、月の魔法も太陽の魔法も効く。

「それに、物理的な攻撃に対しても、防具が信頼できることはわかってるだろ?」

 魔法研究所と錬金術研究所で作られた特別な防具。

 アレクと戦った時は、曙光のベストを着ていなかったけど。ちゃんと装備を整えた状態で戦っていたら、本気のアレクに斬られても衝撃は少なかったはずだ。

 ……だめだな。

 理詰めで説得しても、安心はしないか。

「心配しなくても、だめだと思ったら引けば良いだけだ」

「逃げるってこと?」

「どうせ、何度でも挑戦できる。少しずつ相手を分析して、態勢を整えてから再戦しても良い」

 アレクとレイリスが無事なら、急ぐ理由はない。

「エルは、あの人の名前を知ってる?」

「知らない。あいつの記憶には、あいつの名前もヴィエルジュの本当の名前も出て来なかった」

「私も。二人の名前は、わからないままなんだ」

 リリーが見た記憶にもなかったのか。

 エイルリオンとジュレイドが回収した記憶に含まれていないってことは。

 二人が手放さなかった記憶である証明だ。

 大切な人の、大切な名前。

「リリーシア」

「!」

 リリーが驚いて、少し俯く。

 可愛い。

 耳も少し赤く染まってる。

「エルロック」

「ん?」

 リリーが、自分の顔を覆う。

 照れてるらしい。

 ……本当に可愛い。

 好きに呼んで良いんだけどな。

「エルの夢を教えて」

「俺の夢?」

「バイオリニストを目指したことはないの?」

 全然、考えたことなかった。

「リリーは、ピアニストになりたかったのか?」

「えっ?私?」

 違うらしい。

 俺と同じで、単に考えたことがなかっただけかもしれない。

 あんなに上手いのに。

「俺の夢は、リリーと一緒に幸せな家庭を築くことだよ」

 リリーの夢。

「エル……」

 大丈夫。

 二人で居るなら、どんなことでも叶えられる。

 だから、傍に居て。

 その輝く瞳で見つめて。

 リリーが居ないと始まらない。

 


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