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アウダーチア

作者: 加藤 一央

抱かなくてよかった

そう思った。


「意見が合わないから、わかれませんか?」


そんなメールが来て、一日だけのお付き合いが終わる。

なんにも感じない。少しの喪失感もない。

ここ数ヶ月、メールや電話でお互いを理解しあっていったような気がしてた。

もう十分に解り合えた、そうお互い思えたから会おうということになった。

もっと傷ついたほうが自然なのかな、とも思う。

でも、なんにも感じなかった。


作業着に着替えて、仕事に向かう。

僕は、とある工場の作業員。

構内に数十本ある生産工程のひとつを任されている。


指定の駐車場から自分の工程場まで歩く。「連続無事故749日」と書かれた看板が見え、トラックが横来する間を抜けていく。

途中何人かの顔見知りと挨拶や軽い会話を交わす。そのうちの何人かは南米から来た出稼ぎの期間工達だ。


毎日繰り返す光景。

嫌いじゃない。

さぁ、仕事。

そんな気分に切り替わる道のりだ。


まるで生きている。

呼吸し心臓の鼓動が聞こえるみたいだ。

この仕事に就いた当初は工場内にこだまする機械音を耳にするたびそんなふうに感じた。


点呼をし、簡単な段取りを皆に伝えて作業開始。


工場って生物はしょっちゅう咳をしたり、ゲップをしたり、ときにはもっとシリアスな病いにかかったりする。

トラブル発生の度に赤いランプが点灯しけたたましいブザーが鳴って、機械は自動停止する。

それもありふれた日常の仕事の光景だ。


とりたてて頭がよかったわけでも、悪かったわけでもない。

ただ他の工員より少しだけ口数が少なく、黙々と作業してきたせいで今の役目を貰った。

何回か配置替えはあったけれど、この工場のなかでの異動だった。

何年もこのひとつ屋根の下で働いているわけだ。


繰り返す、という感覚が好きで。

リズミカルな金属音も、単調とも言える毎日の同じ作業、同じ動きも。

常に前進や自己改革を求められることが嫌で、ある種工場と一体化して歯車のように無心に作業している時間が気に入っている。


週末になると風呂場の残り湯で作業服を洗う。

油汚れがひどくて、他のものと一緒に洗濯機で洗うわけにはいかない。


僕が工場に就職した8年前は、時々風呂場で僕の作業服を洗ってくれた女性がいた。

その女性との半同棲のような付き合いは、3年間と少し続いた。


8年前。

僕はまだガキに毛が生えたような感覚で、野生の生き物のように恐怖を感じると人を殴る、そんな状態だった。

ギラギラした目で周りを睨みつけていた気がする。

二度ばかり警察のご厄介になり、二度目には三週間留置所に入った。

刑務所には行ってない。

それでもなんとか履歴書をごまかして就職し、自称ベンチャーの小さな代理店で営業をしていた。


長くは続かなかった。

ホリエモンが逮捕されたのと同じ頃、僕は社長と口論したあげくクビになった。


その頃はよく泣いたし、よく鬱症状におちいったものだ。

自分のアイデンティティの置場所に困っていた、そんな時期だった。


万博がはじまると彼女は派遣の仕事を辞めて、とある国のパビリオンで働き始めた。

僕は再就職する勇気が出ずに、日雇いのバイトと失業保険で生きていた。


4つめのtatooを背中に入れたのはその頃だ。


生きている感覚が鈍くなると、無性に彫りたくなる。痛み、出血、死ぬまで消えない模様。他人と自分との境界線。

針が振動し、皮下に黒いインクが置かれていく。

カッターナイフでゆっくりと皮膚を切っていくような痛みとともに、自分がなにか特別な存在になっていく感覚が訪れる。

僕はそれに酔いしれた。


テレビでは万博会場にごったがえす連日の人の波を報じていた。

パビリオンの仕事を終えて、僕の部屋へ泊まりにくる彼女は汗臭くて、夏の数万人分の熱狂を部屋に運んだ。

なんだかそれが僕にはまぶしく、妬ましかった。


僕は暇で、彼女は忙しかったけれど、僕らはちゃんとデートをし、週の大半の朝を同じベッドで迎えた。

しきりに彼女は万博に遊びに来るように誘った。

自分のいるパビリオンに来たら、かわいい民族衣装姿の私が見れるんだから、と。

僕はそんな誘いをいつもなんとなくあしらって、うちの親と一緒に行くよなどとお茶を濁してごまかしていた。


僕は万博の熱狂が嫌いだった。

夏の暑さも、人ゴミも、ひとつにまとまっていく人の心も、それに入りきれない自分も嫌いだった。


万博が閉幕に近づくにつれて、彼女はだんだん無口になった。

僕は相変わらず、失業保険と日雇い。


閉幕も間近な日の晩、ふたりでビールを飲んだ。

彼女は万博が終わっちゃうの、と泣いた。

僕は泣く彼女の頭に手を置いた。

寂しくなるね。

そう言った。


その数日後、最終日は絶対来て欲しい、そう彼女は言った。

すっごい感動するから、そう言いながら手を広げるジェスチャーをした。

その格好がなぜか全身で手招きしているように見え、妙に白けた感じがした。


万博閉幕の一週間前、僕はなけなしの有り金をはたいてアメリカへ旅立った。

二週間の日程でロスへ向かった。

ロスに決めたのは当時ヒップホップ雑誌によく載っていたコンプトンやワッツ、クレンショーが僕にとっての聖地だったからだ。

コンプトンでLAのロゴ入りキャップでも買ってくるつもりだった。

タンクトップのギャング、銃声、ドラッグ…

そんなイメージでモリゾーキッコロを血生臭く、塗りつぶしてしまいたかった。

そんなやる気のない旅の目的はLAXに着いた時点で吹き飛んだ。


アメリカ人はデカかった。

空港で見かけた制服姿の黒人のおばさんが身長も体重も自分よりもはるかに大きくて、

いままで日本で殴ったどんなやつよりも大きかった。

一瞬で怖じ気づき、ノリノリな気分は吹き飛んだ。

コンプトンどころかLAのダウンタウンすらろくに見ずにテキサス行きのグレイハウンドに乗った。

なんの根拠もなく、テキサスを目指した。


夜通しバスは走った。

南部の街々。

バスの乗客たちのなかには金持ちは一人もいなかった。

学生、移民、ただ金がないだけの平凡な帰省客。

途中途中の駅で何人か降り、何人か乗り込んでバスは走り続けた。

バスのシートの背もたれに刻まれた落書きを見つめながら、

あるいはブランケットにくるまって窮屈そうに眠るヒスパニック系の家族をなんとなく観察しながら、

座り心地の悪いシートでなんとか寝ようとし、結局寝れずじまいでテキサスが間近になった。

テキサス州ダラスまであと数駅のところで僕の隣に若い女性が座った。

実家から大学へ戻るところだという癖毛のきついタンクトップのむちむちした笑顔の可愛い娘だった。

20歳だというその娘を二時間がかりで口説きダラスで連れだって下車し、

一緒にカフェに行き、夜は娘のアパートに泊まった。

それから帰国までの全ての晩を僕はその子の部屋で過ごした。


娘はレベッカといった。

大学はまだ休暇中だったから、夕方だけのレジ打ちバイトの時間以外はずっと一緒だった。


彼女のアパートには食事用のテーブル以外に家具の全くないリビングとキッチン、部屋の真ん中にクイーンサイズのマットレスが置かれた雑然とした寝室があった。

僕とレベッカは一日のほとんどの時間を寝室で過ごした。

僕が日本でクリアできないままほったらかしていたファイナルファンタジーⅧをやったり、30セコンズトゥマーズの新曲を聴いたり、彼女の愛車のカローラを運転して車線間違いを笑いあったり、彼女が子供の頃描いた絵を見せてもらったり、絡み合いながら、なんの束縛も展望もなしにただ一緒にいた。


僕が日本から持参した二組のシャツとパンツは早々とレベッカのブラやバスマットなど一緒くたになって洗濯機に放り込まれ、僕はテキサスにいる間中、彼女のスウェットやらTシャツなんかを適当に借りて着ていた。


毎日プレステをし、日本語や英語を教えあったりして過ごしていたが、別に暇だとか退屈だとは思わなかった。


僕はテキサスでクラゲのように非現実の世界で中ぶらりんの怠惰な快楽に浸りきっていた。


食材の買い出しはシアーズだった。

シアーズまでハイウェイにのって20分。

マスタングにカマロ、ダッジ、ビュイック、アキュラやトヨタ。

いちいち車種と運転者を交互に見つめることに飽きて、視線をハイウェイの外に移すと遠くにダウンタウンが見えた。

巨大な現代的なピラミッドのようなビルは「刑務所」だとレベッカは言った。

その言葉の意味はわかっていたけど、IBMやらマイクロソフトの本社ビルみたいだな、なんて思った。


シアーズは想像以上に大きくて、レベッカの部屋にこもりっきりな僕を興奮させた。

中学生のようにはしゃぐ東洋人を連れ、フロアからフロアへカートを押してレベッカはリンスやらパスタやら雑誌なんかを買い揃えていった。


ブックストアである棚をレベッカに示され並んだ背表紙を見ると、「ワンピース」「ナルト」、マンガをほとんど読まない僕にはタイトルしか知らない日本のマンガが並んでいた。


5Fでレベッカが下着売り場にいる間、僕は吹き抜けのてっぺんから階下の光景に見とれていた。


真下に小さなスケートリンクがあって、子供たちがひしめきあってぐるぐる回っていた。

子供やその親のはしゃぐ嬌声が溢れて、吹き抜けの下からドーム状の天窓のガラスで反響していた。

クラゲのくせに僕ははるか階下の異国の家族に見とれていた。


後ろからレベッカに呼び掛けられ、ふたりは地下にあるフードコートで食事をすることにした。


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