氷上夢想
呆れる位に綺麗な夜だった。
凍える大気を一呼吸、肺の全てが氷漬けされそうな程に凍てついた夜。
ぎゅっ、ぎゅっと茶色のブーツが真っ白い雪を踏み、まだ足跡の無い白い世界に二つの足跡が永遠と続く。
月の綺麗な夜。夜空に昇る満月は森の中全体を滞りなく蒼い光で淡く照らしていて、木々に積もった雪や氷柱が蒼く反射していた。
まるでおとぎ話の世界だ。あまりにも幻想的で、美しい。
私は凍える両手を擦り合わせながら森の中を歩いた。
禁断の森と呼ばれているそれは、あまりにも綺麗で聖域のような別世界だった。
「クロル、居る? 聞こえたら返事をして」
震える声は氷漬けの森に滞りなく響いた。しかしクロルが出てくる様子は無い。
意気消沈しながらも森の奥へ進む。
§
大人には見えない存在。つまり妖精は国ごとに様々な解釈がなされている。
幸福を招く存在かと思えば、災いを呼ぶ忌むべき物だとも考えられている。
ここはコロボックルが住む森。皆はコロボックルなんて架空の存在だって笑うけれど、確かに存在する。
十年前、友達とかくれんぼをして誤ってこの森で迷ってしまった時に私は一人のコロボックルと出会った。
彼の名前はクロル。まだ幼い私とクロルはすぐに仲良くなって、友達となった。クロルは人間の食べ物でクッキーが一番好きで、私はクロルに会う度にクッキーを持ってきた。
クロルと遊ぶ内に私は成長を重ねて行く。だけれどクロルはコロボックルで何百年も生き長らえるから殆ど成長をしない。
それに元々コロボックルは小人だ。人間以上の身長になる事なんてまず有り得ない。
§
追憶。クロルと私が初めて出会ってから今までの軌跡を辿る。
森で迷子になって泣いていた私を見つけて慰めてくれたのはクロルだった。クロルが居なかったら私は今頃死んでいただろう。
お互いまだ精神的に幼かったあの頃、私とクロルは約束をした。
「私達はいつでも一緒だよ」って。
確かに私達はずっと一緒だった。クロルと友達になって十年、一日たりともクロルを忘れた日はない。
§
美しく、鋭く、切ない世界。森の中は蒼に支配されていて、見る物全てが蒼に滲んでいた。
氷に閉ざされた森。蒼く淡い光はまるで私を導くかのようだ。
白いダッフルコートから伝わる森の鋭い大気など忘れたように、私は夢中になって歩いた。雪の足跡はどんどんと長くなっていく。
息を吐くと、白くなった。顔が凍りそうなくらいに、痛い空気。しかしその全てが気にならない。
私は無意識の内にこの森に魅了されていたのだ。
しばらく歩き続けた。一面蒼の幻想的な世界は永遠に続く。水の中に飛び込んでしまったかのような錯覚すら生まれた。
真冬の森におよそ生命の鼓動は私一つ分しか無く、私はこの森の女王になれた気がして、妙に嬉しく、そして切なく思えた。
§
初めてクロルとすれ違いが起きたのはいつだっただろう? そればかり考えていた。
多分私が十二歳を迎えた時、だからクロルと知り合って五年が経った時。
いつものように私はクロルに会いに行った。彼の好きなクッキーを持って。
待ち合わせの大木の切り株。私は苔むしたそれにちょこんと腰を下ろしながら静かに沈む森を仰いでいた。
しかしいつまで経ってもクロルは姿を現さず、いつの間にか眠ってしまった。
時間が経過し、閉じた瞼に声を掛けられた。私はクロルだと思って飛び上がった。
確かにそこにクロルはいた。いたずらっぽく笑って、顔を赤く染めている彼がそこにいた。だけれど私は彼を見てぎょっとした。
だって私の先のクロルはほんの僅かだけれど、ぼんやりと霞んでいたのだから。
瞬時に理解した。大人達の話で聞いた事がある、妖精が見えるのは子どもの間だけだって事を。
その時、私は大人達に尋ねた。「どうして大人になったら妖精は見えなくなってしまうの?」と。
大人達は口を揃えてこう言う。「大人になる時にはたった一個の『大切』を手に入れる為に沢山の『大切』を失うんだ」って。
それが、クロルの姿が薄れていくのが子どもから大人に変わって沢山の『大切』の一部を失うって意味をようやく理解した。痛感した。
クロルはそれを知らずにいる。人間の事情など知らないで、コロボックルの物差しで私達を測る。
それがとても嬉しくて、切なくて、辛くて後ろめたく感じた。
§
十二歳を迎えてから段々とクロルが見えなくなってくる。私が大人になっていく証拠がこんなにも簡単に見えてしまうのが煩わしい。
一年を経て、クロルの姿が更に霞んだ。
一年を経て、クロルの声が小さくなった。
一年を経て、クロルの姿が見えなくなった。
一年を経て、クロルの声が聞こえなくなった。
そしてクロルと出会って十年が経過して、十七歳を迎えた私は遂にクロルの気配さえ感じる事が出来なくなってしまった。
それは私が大人になってしまった証拠。沢山の『大切』を失って、たった一つの『大切』を手に入れた証拠だった。
もう、この森に来ても意味が無い。なのに、何故だろう?
おかしいな。右手には手作りクッキーを入れたバスケットを持っている。
いつもみたいに待ち合わせの苔むした大きな切り株に座って待っている。
私の一番の友達が来るのをひたすらに待っている。
かじかむ手を擦り合わせながら、友達が来るのを待った。
何度大人になる事を私は呪っただろう。この森の氷のように、私の時間が止まってしまえば私は一番の友達と永遠にいられるのに。
「私達はずっと一緒だよ」この約束がいつまでも破られる事は無かったのに。
人間とコロボックルがお互いに分かち合う事は出来ない。誰かがそう言っていた気がする。
だけれど、少なからず私とクロルの心は繋がっていた。糸を紡いで行く作業のような私達の関係は終わりを迎えてしまったけれど。
「クロル、返事をしてよ」
あまりにも小さな言葉。目から溢れた雫が、頬を伝った。
紡いだ言葉は氷の中に咀嚼され、次第に私は深い眠りに落ちてしまった。
§
夢を見た。それは私とクロルが初めて出会った日の事。
クロルは私を泣きやませようと必死になっていたっけ。
だけれどあまりにも泣き止まない私に遂にクロルは私をある所に連れて行ってくれた。そこは深い深い森の奥、濃霧が立ち込める湖はあまりに静かで綺麗で。
白い光と睡蓮が森の中の湖を囲んでいた。凍える空気は身を引き締めるのに丁度良い。
湖の周りには沢山のフキの葉。コロボックルはいつもここで自分に似合ったフキの葉を採るのだと言った。
雪が溶け出す頃には一面に白いフキの花と湖に浮かぶ睡蓮の花が開くそうだ。白と赤に染められた世界はきっと美しくて。
§
目を覚ました。微睡みと倦怠感に苛まれて体を起こす。
いつの間にか、夜は更け朝日が氷漬けの森に差し込んでいた。
溶け出す雪と氷柱は静かに冷たい水へと変わり、木の上から静かに滴り落ちる。
冷たい粒子は次第に一つの束となり、陽光に反射されて七色の架け橋を生み出す。
結局、遂に私はクロルと会う事は叶わなくなってしまった。半分覚悟していたが、半分信じたくなかった。
でも事実となった。それだけで何だか脱力。
ため息を吐いてこの森から立ち去ろうと脇に置いてあったバスケットを取った時に気づいた。
妙に軽い。
見るとバスケットの上にかかっていた白い布は綺麗に折り畳まれていて、その中にクッキーは一つも無かった。
そして代わりにあったのは、一葉のフキの葉。
光の柱はスポットライトとなって、私を包み込んだ。
「美味かったぜ、クッキー」
もう見えない筈なのに、聞こえない筈なのに、クロルがいたずらっぽく笑っている姿が見えた気がした。
私は体を折り曲げて、喜びやら悲しさやらを混ぜ合わせた正体不明の感情に打ちひしがれていた。
光に満ちた森の中に、一つの嗚咽が響いた。