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紡郷

 夏の夜、月光に照らされて淡く映る世界に一つの旋律が聞こえていた。

 楽しさだとか、切なさだとかを孕んだ弦を弾く音。まるで一つひとつの音がシャボン玉のように空へとふわふわと昇り、そして消えて行く。

 甘く、優しく、切ない音色は鈴虫の声音と重なり合い、酷く美しく聞こえる。


「相変わらず綺麗な音色だね。その曲は自作?」

 空き地のように広い空間の入口で、背の高い姿の女性がギターを鳴らす少女に向かって言葉を紡いだ。夜も深まっているというのに、女性は麦藁帽子を被っている。

 黒いワンピースに黒い長髪は自然体のまま。髪が蒼白い光を浴びて、美しく光っている。

 少女はギターを弾くのを止めて女性の方へと向き直った。その顔は、さっきまでの演奏の時とは違い、僅かに綻んでいる。

「うん、でもあんまり自分の思うように弾けなくて。今も練習中」

 そう呟く少女はまだ十代後半といった所。黒い髪を後ろで纏めていて、髪留めでしっかりと固定している。

 熱帯夜によって火照る身体は、月光の冷たい光に照らされてもなお、朱く見えていた。


 背の高い女性は小さく微笑むと、少女が座っているコンクリートの土管の隣に腰を下ろした。夜を浴びて黒く光る土管に腰を下ろした少女達の熱は咀嚼されそうで。

 小さく揺らぐ夜の草花。月の光を浴びて幻想的な色を放つそれらを少女達はうっとりと眺めていた。

 遠くで祭囃しが聞こえてきた。そう言えば今日は年に一度の夏祭りの日だ、そう考える少女。

 しかしそうやって考えるのは今日が最後。この故郷を考えるのも今日が最後、なぜなら。

「いよいよ明日だね。貴女がここを出て行く日。貴女の夜の演奏は好きだったから、聴けなくなるのは寂しい」

 女性は麦藁帽子を脱いで月を仰いでいた。彼女の瞳にぼぅっと映るそれは人魂のようで恐ろしくも美しい。

 少女は小さく頷いた。つまり明日という日はこの生まれ育った故郷を出て行く日だった。

 自分の音をもっと誰かに聴いてもらいたいという考えのもとに思い立った行為の果て。それはもしかしたら傲慢だと思われるかもしれないが、少女の本心でもあった。


 少女は昔から音楽が好きで音が鳴る物であれば何でも遊んでいた。周りからはそれを疎ましく見られた時もあったが、それでも少女は音楽を止めずにいた。

 音楽に夢中になってしばらく経った時に出会ったのがこの背の高い女性。少女と初めて会った時、女性は疲れた顔で笑っていた。肩から下げているギターケースを、酷く重そうに背負っていた。

 それから少女は何度か女性と話すようになっていた。女性は今までの自分の過去を一切明かそうとしない、そんな不思議な雰囲気に少女はどんどんと魅入られていったのかもしれない。


 女性は少女と会う時に、いつもギターケースを背負ってくるのに、一度としてそれを弾こうとした事が無い。それを不思議に思いながらも、自分なりの音楽を続けていたある日。

「貴女、ギターを弾いてみる気はない?」

 尋ねられた言葉の意味は、女性がギターを少女に譲ってくれるという事。

 初めて弦を使う楽器に触れられる。それがとても嬉しくて、少女はすぐに頷いた。

 黄土色のアコースティックギターは所々傷付いてはいるが、女性が今まで奏でてきた軌跡を感じるようで嬉しく感じた。 思えばあの日から自分の音楽を誰かに知ってほしいと少女は強く願い始めたのだった。


 熱帯夜には心地よい、静かな風が少女達の頬を撫でた。頬に溜まった熱は引き、そしてまたすぐに熱くなっていく。

 そよ風に揺らいだのは草花だけではなくて、おそらく少女の心も。

 夜の静寂に比例して、少女の心もざわめいた。自分の望みを叶える為に故郷を出て、都会へと越して行くのが今では堪らなく怖く感じていた。

 今まではそんな事は無かった。都会へと行く事が出来る期待と希望で、眠れない日すらあった程だ。誰かが「都会は怖い」と少女に語りかけていたが、そんな言葉すら気にならないでいたのに。

 今まで当たり前だった物が、目の前からふっと消えて無くなってしまう不安、虚無が、すぐ目の前にまで迫っていた。

 考えるだけで少女の表情は自然と強張ってしまい、その不安を忘れる為に手だけはせわしなく弦をかき鳴らしていた。


「怖い?」

 その時、黒いワンピースの女性が唐突に話し掛けてきた。少女は最初その言葉の意味が分からずに疑問を浮かべてしまう。

「都会に行くの、怖い? 手が震えているからさ」

 女性の言葉に初めて気が付いた。少女の右手はカタカタと小刻みに揺れていて、自分の意志では抑えられない程。

「あっ」

 思わず、そう声が漏れてしまっていた。

 声を聞いた女性はまた小さく微笑んで、今度は少女の手を両手で包み込んで優しく話しだす。

「私もね、貴女みたいな時があったの。昔から音楽が好きで、絶対に都会で成功させてやるって。馬鹿みたいにずっと考えていたんだ。結果は、このザマだけれどね」

 女性は恥ずかしがりながら両手を上げて「やれやれ」と呟く。

「都会は怖かった。田舎のルールっていうのが何も通じないのだから。自分が違う星に辿り着いてしまったみたいな感覚。勿論言葉とかは通じるんだけれど、それ以上に心が通じなくてね」

 結局、私の歌は皆には届かなかったみたい。段々と小さくなっていく女性の声を聞くだけで、胸が痛くなっていった。同時に恐怖していった。果たして自分もそうなってしまうのだろうかと。

「やっぱり私、凄く怖い。本当はずっとここに居続けたいのかもしれない。ここは皆が優しくしてくれるから」

 震える声で、精一杯の本音。それを聞いた女性はやっぱり笑ってくれた。

「大丈夫だよ。誰もが私みたいに失敗している訳じゃないもの。貴女の奏でる歌は凄く綺麗で優しくて、ちょっとだけ切ない。貴女ならきっと、私が成し遂げられなかった事を成し遂げてくれる」

 両肩を掴んで、しっかりと少女の目を見据えた。その表情は真剣そのもの。


「だから、ね。応援している。私は貴女のファン第一号だから」

 真夏の夜、少女は胸が熱くなる感覚に襲われた。それはきっと熱帯夜のせいではなかったのだろう。


§


 舗装されていない砂利道に轍が残っていた。

 荷台に乗せられた身体を小さく丸めて、空を仰ぐ。

 大きな群青色に入道雲が一つ轟く。入道雲を突き破って飛び出している飛行機雲は既に霞み、塵となって消えてしまいそうで。


 少女は自分の身体よりも僅かに小さい、大きなギターケースを抱きかかえながら、去りゆく故郷をそっと見守る。

 身体中に響き渡る記憶の欠片。一つの螺旋を紡ぎ出して、旋律を奏でるようだ。

 真夏の大気の灼熱すら咀嚼しそうな凛とした小川の水が、斜陽に晒されキラキラと煌めいた。

 その光は不安と憂鬱にまみれている少女の心境とはまるで正反対。仰ぎ見た視線を真っ直ぐ過ぎ去る故郷に向き直る。

 少女が見据えるその先は、未来か過去か。


 おもむろに思い出した。真夜中の出来事、別れ際に女性から渡された物。

 銀紙で包まれたそれを崩さないように開いてみると、そこにはチョコレートがあった。

 女性の言葉を思い出す。

「貴女の為に祈りを込めたやつ。出来れば早い内に開けてみてね」

 女性の優しさに、少女は胸が潰されるくらい痛く感じた。喉の奥が熱くなって、視界がどんどんと潤んでいく。

 少女は嗚咽をかみ殺して、一口サイズのそれを口の中に落とした。


 ポロポロと零れる涙は夏の熱波にすっかり温まってしまう。

 やがて口の中に広がるチョコレートは、酷く甘い味がした。

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