約束の仲に
深い漆黒の中、聞こえてくるのは車輪の音と靴の足音。砂利を踏み潰し、枯れ葉を踏み潰し、木の欠片を踏み潰し、僕達は無我夢中で暗闇の中を歩いていた。
目の前の少女は不安そうな目で僕を見ている。白い帽子を深くかぶり、服は薄い水色というアンバランス。
荒い息を吐きながら、頼りない腕はそれでも彼女を支える。額から湧き出る汗を拭う事もせずにひたすら、ひたすら。
きっと僕は君との約束を果たしたいのだろう。だからこんなに懸命になっている。必死になっている。
夏の虫のオーケストラを聞き流しながら、僕達の体はさらに深い闇へと染まって行く。
生暖かい風が後ろから吹いてくる。憂慮とも憂鬱とも取る事が出来るそれに追い抜かれないように、僕の足は次第に早まっていた。
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その日も僕は彼女の病室に訪れていた。
一面が白に支配された世界に一輪の花だけが目立って見える。部屋の中に満ち溢れた夏の匂いを目一杯吸い込んで、今日も笑顔を絶やさないように。
彼女はいつものようにベッドの上で半身を起こしたまま窓の外をじっと眺めていた。太陽の光を浴びて青々と茂った若葉が内側の部屋にまで緑色の光を届けている。
僅かなそよ風と蝉の鳴き声、外ではしゃぐ子ども達の声、踏切の遮断機が降りる音。そんな色々が飛び込んできて、相変わらずこの部屋はぐちゃぐちゃだ。
「おはよう。また来たのね」
彼女はようやく僕の事に気が付いたのか長い髪を靡かせながら、こちらを振り向いた。整った顔立ち、白と黒だけで構成されたようにまるで漂白されたような肌。瞳の奥の黒には光は宿っていなかった。
折れそうな程に細い手でベッドのシーツを掴みながら彼女は言った。
毎日、彼女の姿を見る度に言いようのない感情が体の中を占める。黒雲のように膨らむそれは彼女を見るたびにはちきれんばかり。
彼女に近付いて、右手に持った見舞い品を取り出した。半透明のビニール袋の中から覗く物は、みたらし団子。
僕は笑った。いったいいつ彼女は本当に笑ってくれるのかと心の中で疑いながら。
「また来てしまったよ。今日はみたらし団子だ、食べよ?」
毎日の、繰り返し。
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彼女は僕にとっての幼なじみで、初恋の相手でもある。ちなみに初恋は未だに継続中だ。
彼女は昔から重い病気を患っていて、今まで一度も自分の足で世界を踏んだ事は無いらしい。
昔の頃の僕は車椅子姿の彼女に同情したりなんかしていなかった。だって彼女はいつも僕のそばにいて、微笑んでいてくれたから。それだけで僕は満たされていた。
彼女は小さい頃から手先が器用で、いつも絵を描いていた。僕もそれに挑戦した事はあったけれど、センスが無いという虚しさだけが残るだけだった。
明るい色彩をふんだんに使った彼女の絵は見ているだけで心地良い。緑の丘、黄色い花、青い空に白い雲、そして真っ赤な太陽。クレヨンで塗られた絵はグラデーションが生まれていて、果たして子どもが描いた絵なのかと疑いたくなる。
そうやって幼少の頃は何の曇りのない眼でお互いを信頼しあっていた。確かに二人で遊んでいる所を学校の男子に見られると、茶化されたりしたけれど。
でも僕達はいつだって、いつまでだって仲良しなんだ。
そんな当たり前の日に唐突に終わりが来たのは僕達が中学生の頃。
曇天の空に重苦しい空気、水辺の蛙が一声鳴いた。
「私ね、入院する事になったの。いつ家に帰れるかは分からない、だからこうやって絵も描けない」
彼女の声は震えていた。水っぽい声は次第に滲み始めて、聞き取れないくらいに。
僕は何も言う事が出来なかった。今まで何の隔たりもなく接する事が出来た彼女が急に入院する。
誰のせいでもないと彼女が言っても、僕の今までの行為が彼女の体に無理をさせて、否定されたみたいでやるせなさを隠しきれなかった。
「そう、なんだ」
捻り出した声は陳腐な言葉。本当はもっと伝えたい事があったはずなのに、贖罪でも、嘆きでもないその言葉が、どうしても言えずにいた。
「また、私と遊んでくれる? いつか私が元気になったら、どこか遠くに連れて行ってくれる?」
まるで彼女は何かにすがるように尋ねてきた。その瞳は期待を抱いている。
僕はその言葉に、素直に頷く事が出来なかった。それは体よく言っても「逃げ」にしかならない。
初めて理解してしまっていた。彼女は病人で、僕とは決定的に何かが違うのだと。
それを理解した僕は容易く頷く訳にはいかない、無責任な事を言って彼女を傷付ける事はしたくないから余計に。
色々な言葉を張り合わせて正当性を自分自身に主張したかった。逃げたくなった、現実ってヤツに。
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僕達はみたらし団子に一切手を付けずに淡々と過ぎ去って行く時間をぼうっと眺めていた。
僕は彼女をじっと見ていた。彼女は蒼い空をじっと見ていた。蒼い空は太陽をじっと見ていた。太陽は全てをじっと見ていた。
彼女の目に僕の存在はどこにも映っていない、それが堪らなく煩わしい反面安堵してしまう。
中学の二人の別れからしばらく会う事は無かった。別れ際に放った彼女の言葉に僕は答える事が出来なかった。おそらくそれが全ての分岐点だったのだろう。
知らない内に彼女に無理をさせていた。その結果として彼女は入院生活を強いられた。ずっとそう思ってきた、いや思っている。
僕のせいで彼女は永遠に外に出る事が出来なくなってしまったのかもしれない。重い重い巨大な咎が僕の心臓を潰すようにのしかかってくる。
だから偶々病院で彼女と出会った時は驚きと罪悪感のあまりに心臓が踏みつぶされるかと思ってしまった。
今でも忘れられない、白い廊下の途中で彼女は僕に話しかけてきた「久しぶりだね」って抑揚の無い言葉で。
光の宿っていない死んだ目の黒。目の下には深いクマが出来上がっていて、蒼白い肌に驚くほどやせ細った体。
変わったのは体だけじゃない。以前は多彩な絵も今では白と黒だけの冷たい物だ。
彼女のその姿を見て、どうしようもなくなって、逃げる事も出来なくて、惰性を貪るように彼女の病室に足を運ぶようになった。
新緑の光が揺らぎ僕達の体を優しく包み込んでいた。まるでそれは断罪のようで。
硬いパイプ椅子に座った僕は握り拳を作っていた。一体自分は何をしているのだろうと。
過去の過ちを彼女に許してほしいのだろうか? それともまだ自分に正当性を求めているのだろうか?
いつまでも保身に走る自分が馬鹿みたいに憎たらしくて。
「私ね、違う病院に移る事になったの。病気の症状が良くなくて、すぐに手術しないと、もう間に合わないって」
唐突に彼女は話を始めた。まるで中学の頃の再現だ。ただ一つ違うのは、彼女の声が乾いている事。
「もう、君とは会えないね。いつだったか、君と遠くに行くって望みが二度と叶わなくなっちゃった」
彼女は初めて笑った。だけれどそれは僕が望んでいた物じゃなくて、悲しくて痛々しくて。
「えっ?」
底の無い罪の意識が僕を殺そうとした。僕はずっと彼女と交わした約束はもう叶わないと思ってい諦めていたから。
でも彼女はそれをいつまでも待っていて、僕と再会した時にそれを期待した。
一瞬で悟った。彼女はあの頃から何も変わっていなかったのだと。いつまでも僕との約束が叶う事を信じていて、弱々しい体で必死に病気と一人で戦っていて。
変わったのは僕の方だ。ずっと罪悪感に苛まれてきて、罪悪感に逃れる為に彼女と会わないでいて。
まるで中学の頃の別れの時のような今。
あの時言えなかった事や出来なかった事を今なら言える。これがおそらく最後のチャンスだから。
彼女を喜ばせる為に、彼女の願いを叶える為に。
やり残した事をやり直したいから。
「連れて行ってあげるよ、君が焦がれている“外”に」
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くだらないくらいに疲労感が溢れていた。少しでも気を抜けば急斜面の途中で彼女事手を離してしまいそうで。
手が裂けて血が溢れるくらいに車椅子の取っ手を強く握る。この手を離さないように。
贖罪の為の行為ではない。ただ彼女の喜ぶ顔を見てみたいから。
真夜中の空に満月がぽっかりと僕達の頭上に現れていた。
滝のように滴る汗を拭わずに、遂に僕は目的地へと到着した。
そこは展望台。町が一望出来るそこは小さい頃僕と彼女が好んでよく来た場所。昔と比べるとすっかり寂れてしまって、空気も町並みも世界も全く変わってしまったけれど、僕達の約束だけはまだ変わっていなかった。
彼女は身を乗り出して夜の世界を一望した。ネオンの光が遠くで煌めき、ここは紺色の空と星屑と月明かりで煌めいている。
「綺麗」
初めて彼女の声に抑揚が出た気がした。
これが彼女の願い。僕の望み。
今ならきっと言える、あの時に言えなかった言葉も。
「上手く言えないけれどさ、昔から僕に優しくしてくれている君にとても感謝している。また二人でこうやって空を見たいから」
だから、君には笑ってほしい。病気になんかに負けてほしくないから。
僕の言葉が伝わってくれたのか、君はようやく微笑んだ。くすみのない微笑みはまるで僕の世界を凌駕するみたいで。
真夜中に交わした言葉のいらない約束。
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あれから数ヶ月、僕は彼女が再びこの地に戻ってくるのを待っている。
交わした約束を破らないように、僕達の中の笑顔を消さないように。
その時はきっと彼女は両足を地面に着いての再会だ。
沢山の希望を膨らませながら、この両手は君を支える為に空のままで。




