第1話∶朝が来るまで
夕暮れの渋谷スクランブル交差点を、葵はうつむき加減で歩いていた。広告代理店の激務に追われ、連日の終電帰り。鏡に映る自分の顔は生気がなく、まるで色褪せたモップのようだった。「私、何のために生きているんだろう」。そう呟いた唇から漏れた溜息は、冷たい秋風にかき消された。
街はすっかり仮装の熱気に包まれていた。魔女、ヴァンパイア、ゾンビ、そしてアニメのキャラクターたち。誰もが日常の仮面を脱ぎ捨て、別の誰かになりきって目を輝かせている。「いいな、みんな……」。羨望と諦めが入り混じった思いを抱えながら、葵は予約していた小さなバーの隅の席に滑り込んだ。
注文したのは、ブルーキュラソーを使った仄かに妖しいカクテル。グラスの底で炭酸の泡がパチパチとはじけている。
「お疲れ様、お姉さん」
ふと、隣の席から声をかけられた。振り返ると、銀色の仮面をつけた長身の男が微笑んでいた。シルクハットに黒のジャケットという、どこかクラシックな吸血鬼の仮装だ。その瞳の奥には、どこか退屈を紛らわせたいような、それでいて鋭い光が宿っていた。
「……疲れが見えてる?」
自嘲気味に笑う葵に、男はグラスを軽く掲げてみせた。
「疲れてる顔じゃない。物語の主人公の顔さ。ほら、12時までまだ時間はある。ガラスの靴なんて脱ぎ捨てて、フロアに行ってみないか?」
なぜそんな言葉に心を動かされたのか、自分でも分からない。けれど、心の奥底でずっと澱のように溜まっていた何かが、音を立てて崩れた。カクテルを飲み干し、葵は立ち上がった。
クラブの重低音が床を揺らすフロアに足を踏み入れると、世界が一変した。
スパンコールが煌めく照明の下、無数の人間が音に合わせて身体を揺らしている。他人の目を気にする必要なんて、ここにはない。誰もが自分の人生の主役だ。
(Are you ready?)
頭の中で、どこかからそんな声が聞こえた気がした。
リズムに身を任せ、ステップを踏む。最初はぎこちなくとも、音楽のうねりが葵の身体を包み込み、日々のストレスを心地よく剥ぎ取っていく。カボチャの馬車は待たせたまま、12時を過ぎても魔法は解けない。いや、解くつもりなんて最初からない。
隣を見ると、仮面の男が楽しそうに笑いながら葵を見つめていた。その視線に背中を押されるように、葵はさらに深く、熱い夜の迷路へと踏み出していく。
「もっと狂わせてよ」
心の中でそう叫んだ瞬間、胸の奥から熱い熱が込み上げてきた。毎日のルーティンにすり減らされていたはずの自分が、こんなにも鮮やかに輝けるなんて。私は私だけの世界の女王だ。
朝が来るまで、この魔法は終わらない。
夜の闇のなかで、葵は新しい自分と出会っていた。
第1話 完




