第五章 悪魔区 ― 笑いの倫理と欲望の迷宮 ―
悪魔区の空は赤かった。
正確には「夕暮れの赤」ではなく、何時であっても空が赤い。笑素の色が違うのだろうとソラは分析した。悪魔の笑素は少し刺激が強く、鼻の奥をわずかに焼く匂いがした。
ここは笑界の中でも「笑いの暗部」と呼ばれる地区だ。恐怖、欲望、破壊、過激——そういった感情が生み出す笑いを専門とするモンスターたちが集まっている。
笑いの持つ「光」を見てきたソラには、「影」を理解する試練が待っていた。
第五の笑石「恐怖の石」はこの地区の深部に封印されているという。
◆
悪魔区の入り口は、他の地区とは明らかに違う空気をまとっていた。
赤い空。硫黄に似た、しかし不思議と不快ではない匂い。石畳ではなく、黒い岩が敷き詰められた地面。建物は石造りで、どれも薄暗く、しかし内側からは活気のある声と笑い声が漏れてくる。
「笑い」という点では他の地区と同じだ。ただその笑いが、少し刺激的だった——ここの笑素は、鼻の奥をわずかに焼く。
入り口近くの広場で、公開裁判のようなものが行われていた。
被告席にいるのはデーモン系芸人のデモ彦で、原告席には「笑界コンプライアンス委員会」の看板を掲げた悪魔たちが並んでいる。観客はさらに多くの悪魔たちで、野次や歓声が飛び交っている。
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No.43
モンスター名:デーモン系・デモ彦
分類:悪魔
芸人スタイル:過激ネタ担当
ストーリー概要:ギリギリアウトの過激ネタを繰り出すデーモン系芸人・デモ彦。コンプライアンス委員会との終わりなき攻防を描く法廷コメディ。「笑いの自由はどこまで許されるか」という問いを突き付ける現代的テーマ。
見どころ・テーマ:表現の自由と倫理、笑いの限界値を探る旅
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「今月の第三ネタ、アウトです!」
「ギリギリどころか完全に超えてます! 弁護側の意見を聞く気もない!」
「いや、一応聞いてはいる! ただ聞いた上でアウトと判断している!」
被告のデモ彦は「えぇ〜!どこがアウトか教えてくれなくない⁉ マジ意味わかんないんだけど!?」と言い張っている。声は冷静で、法廷に慣れた者の落ち着きがあった。ソラはこれが「初犯」ではないと判断した。
「失礼ですが、これは何回目の裁判ですか」と近くの観客に聞いた。
「今年三十二回目」と答えが返った。
ソラが思わず立ち止まっていると、委員会の一員が「そこの人間! 白衣を着ている! 医師か!」と叫んだ。
「……はい、船医ですが」
「ちょうどいい! 法廷医師として証言を!」
「医師と法廷医師は——」
「この法廷では医師=法廷医師! 規則です!」
ソラは前に出た。出るしかなかった。
「証人として、当該ネタの笑いの倫理的判断を述べよ」と委員長が言った。
ソラは一拍置いた。法廷は静まり返った。赤い空の下、悪魔たちが全員ソラを見ている。
「当該ネタの構造を分析します」とソラが言った。「対象者を特定できる表現が含まれています。これは笑いの倫理上、問題のある要素です。しかし——」
「ただし?」と全員が前のめりになった。
「ただし、その表現が特定個人への攻撃として機能しているか、社会的権力構造への批評として機能しているかは、文脈によって異なります。医療倫理においても同様です。同じ処置でも、患者の同意と目的によって倫理的評価が変わる」
「……つまり、アウトか否かは文脈次第と?」と委員長が言った。
「そうです。判断には、ネタの意図・対象・受容者の解釈・社会的文脈の全てが必要です。この場でどちらかに断定することは、情報が不十分です」
委員会がざわめいた。デモ彦が「そうそうそう! それそれそれ!! まじそれが言いたかったやつぅ!!!」と叫んだ。
「ただし」とソラが続けた。「情報が不十分なまま判断を保留することも選択肢です。医療では、診断が確定するまで治療を待つ場合があります」
「再審議!」と委員長が叫んだ。「今月三十三回目の再審議!」
場は次回へと持ち越された。
デモ彦がソラに「まじありがとー! また来てや! 神!」と言った。
「……倫理の問題は解決していませんが」
「解決しなくていいっしょ! 俺は倫理の限界を探り続けるから! それがライフワークなんで!」
「それが目的ですか」
「限界の先に、誰も見たことのない笑いがある。医師も体の限界とか探るじゃないすか!」
「研究の文脈では。ただし必ず倫理審査委員会の承認が必要です」
「……その発想、超いいじゃないすか」とデモ彦が言った。「笑いにも倫理審査、確かに必要かも〜!」
ソラはその言葉を手帳に書いた。「笑いの限界探索と医学的研究——構造的に同型。倫理審査という概念の有効性、笑界での応用を検討する価値あり」
◆
デモ彦の裁判から離れると、別の騒ぎが起きていた。
ブラックジョーク漫才師のベリ子はスポンサーを笑いのネタにすることで知られており、毎回スポンサーが降板するが、「降板したこと」をまた次のネタにするという無限ループを実践していた。今日もちょうど、新しいスポンサーが降板した直後らしく、ベリ子の周囲に記者らしきモンスターたちが集まっていた。
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No.50
モンスター名:ベリアル・ベリ子
分類:悪魔
芸人スタイル:ブラックジョーク漫才師
ストーリー概要:社会の暗部をブラックジョークで抉るベリアル芸人・ベリ子。毎回スポンサーが降板し、それをネタにまたスポンサーが降板するという無限ループ。最終的にスポンサーなし・自主配信で最大視聴者数を記録。
見どころ・テーマ:批評と風刺、スポンサーシップとアートの関係
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「ちょっちょっ、聞いてほしいんやけど〜」とベリ子がソラを引き止めた。「スポンサーなしで自主配信に切り替えたとき、視聴者数が激増したんだけど、なんでだと思う?」
「スポンサーという商業的制約が消えたとき、コンテンツの純度が上がった。制約が減るほど本来の声が出やすくなる——これは医師が研究費や機関の制約から解放されたときに最も創造的な研究が生まれることと似ています」
「でも制約あったからこそ、制約と戦うコンテンツが生まれたんじゃね? 矛盾じゃなくない?」
「矛盾ではありません」とソラが言った。「制約があったから批評が生まれ、制約が消えたから純度が上がった。二段階の変化です。最初の制約がなければ戦うコンテンツも生まれなかった。しかし最終的には制約を脱することで完成した」
「……病気が治ってから本当の健康が分かるみたいな〜? えっそれヤバくない?」
「患者が快復したときに『ああ、自分にはこういう体があったのか』と気づくのに似ています。制約があったからこそ、ない状態の価値が見える」
ベリ子が「……それ、マジでネタにしていい⁉」と言った。
「どうぞ」
「笑界コンプライアンス委員会対ベリ子のスポンサー論——これまとめて一本のネタにしたら絶対バズるじゃん!」
「私が『コンプライアンス委員会医師特別顧問』として活動したことも含めますか」
「それ一番オイシイとこじゃん!! 絶対入れるわ!」
悪魔区の「笑いの倫理フェスティバル」として記録されたのはその夜だった。デモ彦の裁判記録とベリ子の自主配信論が合流し、ソラの医師的見解が触媒となって、笑界の思想的議論として定着した。
◆
悪魔区の中心部に、黒い宮殿があった。
他の建物が石造りや木造なのに対し、この宮殿だけが黒い金属で覆われていた。光を反射しない、むしろ光を吸収するような黒さだ。入り口には門番もいない。ただ「入れるものなら入れ」という空気だけがある。
笑界の黒い宮殿の前に立ったとき、ソラは少し立ち止まった。
宮殿の主は「笑界を裏から操るプロデューサー」と呼ばれる悪魔——サタン芸人のサタ奈だと聞いていた。笑石の情報を持っているかもしれない相手だ。
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No.44
モンスター名:サタン・サタ奈
分類:悪魔
芸人スタイル:ラスボス芸人プロデューサー
ストーリー概要:お笑い界の全てを裏から操るサタン芸人プロデューサー・サタ奈。芸人を発掘し、育て、売れさせ、最後に笑いを回収する究極のプロデューサー像。「笑いは支配できるか」を問う壮大な業界ドラマ。
見どころ・テーマ:支配と創造、エンターテインメント産業の権力構造
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「入りなさい」という声が宮殿の中から聞こえた。
扉は開いていなかった——だが入ることができた。なぜかは分からない。気付いたら中にいた。
中は広大だった。
壁一面に、笑界中の芸人の写真と経歴が貼られていた。白い紙に書かれた名前と、赤い糸で繋がれた相関図。地図のようでもあり、棋譜のようでもある。笑界のエンターテインメント産業の全体構造が、この部屋一つで見渡せた。
「……凄い情報量ですね」とソラは言った。思わず。
「プロデューサーの仕事は情報だから」
声がした。
部屋の奥に、サタ奈がいた。美しい女性の形をしていた。ただし目が赤く、後ろに折り畳まれた翼がある。立っているだけで、空間の重心が彼女のいる方向に傾くような感覚があった。
「……あなたの旅、ずっと見ていました」とサタ奈は言った。低く、静かな声だった。
「……どこから」
「どこからでも。プロデューサーは全てを見る。見ていなければ発掘できない」
「あなたが笑界を裏から操っているという話は本当ですか」
「裏から操る、という言い方は……あまり好きではないですね。舞台は芸人のものです。私は、その可能性を最大化するための存在に過ぎないので」
「では舞台に立つことはありますか」
「あなたの前に立っている」
ソラは一拍考えた。「……なるほど。今このやりとり自体が、あなたの演技の可能性があります」
サタ奈が初めて笑った。それは本物の笑顔に見えた。
「笑えない医師が来た、と聞いたとき……面白いと思いました。あなたをプロデュースしたい、と思っています。もしよければ」
「私の目的は帰還です」
「知っている。でも——あなたが笑えない理由を、私は知っているわよ」
「……言ってください」
サタ奈は窓の外を見た。赤い空が広がっている。
「子供の頃、笑ったとき誰かに笑われたことがある……んじゃないかと思って。笑いたいのに、笑うことを恥ずかしいと学習してしまった。その記憶が、笑いの感情回路を……抑制しているんだと思います」
ソラは動かなかった。
「確認できますか、それは」
「できない。でもあなたの反応が、確認してる」
「……」
「医師になったのも、感情より理性を優先することが評価される職業を選んだから。違う?」
ソラは何も言えなかった。
違わないと思った。しかし認めることへの抵抗があった。それもまた、サタ奈に見透かされている気がした。
「それが正しいとしたら」と、珍しくソラが先に口を開いた。「どうすればいいんですか」
「笑うことを……自分に、許すことです」
「……どういう意味ですか」
「あなたは笑いたい気持ちを……感情的すぎる、と判断してきたんじゃないかと。でも感情は……医師の敵ではないはずで。患者を救いたいという動機も感情だし。その感情があなたを医師にした、んだと思います」
ソラは、それが自分のことだと気付いた。気付いていたのかもしれない。ただ言語化していなかっただけで。
「……今すぐには、許せません」
「それでいいんだと思います」とサタ奈が静かに言った。「旅の途中ですから」
サタ奈は微笑んだ。その笑顔は美しかった。
「笑石の情報は教えてあげる。恐怖の石は、恐怖を笑いに変えた芸人の集まりの先にある」
◆
宮殿を出ると、悪魔区の広場に人だかりができていた。
収録中のスタジオがあった。窓から覗くと、舞台の上で一人のMCがトークを繰り広げている。観客の悪魔たちが笑っている。
かつて天界一の司会者だったルシファー芸人のルシ郎は、今は地上でMCとして活動しながら返り咲きを狙っていた。
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No.45
モンスター名:ルシファー・ルシ郎
分類:悪魔
芸人スタイル:カリスマMC芸人
ストーリー概要:かつて天界一の司会者だったルシファー芸人・ルシ郎が、地上界でMCとして返り咲く大逆転劇。過去の栄光と現在の葛藤を抱えながら、新世代との競争に挑む。伝説の復活と現在地の問い直し。
見どころ・テーマ:転落と復活、栄光の記憶と現在の自分
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収録後の楽屋で、ルシ郎がソラに気づいた。「窓から見てたでしょ」
「……はい。面白かったです」
「面白いという感情は分かるの?」
「ネタの構造として面白いと分析できます。ただ感情として笑えるかどうかは——」
「正直だな」とルシ郎が笑った。「座って話そう」
楽屋の椅子に向かい合って座った。ルシ郎は手鏡で自分の顔を確認しながら「天界にてMCを務めておった頃、何が最も楽しゅうございましたか、そなたには分かりますかな」と言った。
「何が一番楽しかったですか」とソラが聞いた。
「ゲストが輝く瞬間にございます。拙が何かを引き出した瞬間——それが最も嬉しゅうございました。自分が笑わせるよりも、でございます」
「今は?」
ルシ郎は手鏡を置いた。「……今も同様の仕事をしております。ただ、見てくださる御方が減りましてございます」
「見ている人の数と、仕事の質は関係がありますか」
「……本当はないはずだが、気持ちは変わる。観客が少ない日は、どこかやる気が出ない自分がいる。それを認めたくないから、より丁寧にやる。でも消耗する」
「医療でも同じです」とソラが言った。「患者が少ない病院と多い病院で、医師の質が変わるかというと——理屈では変わらない。でも実際は、見てくれる人が多い方が緊張感が違う。そしてその緊張感が、仕事を磨く。ただし消耗もする」
「消耗と磨きは、両方参りますか」
「そうです。どちらかだけは、ない」
ルシ郎はしばらく黙った。
「……そなた、拙のことを存ぜぬに、よう分かっておられますな」
「医師は患者を短い時間で理解しなければならない。そのために聴く訓練をします」
「拙の患者として診てくれたわけではなかろうに」
「今も輝いていますよ」とソラが言った。
珍しく、感情が先に出た言葉だった。「感情的すぎる」と普段なら止める言葉だ。でも、止まらなかった。
ルシ郎が「……かたじけのうございます」と笑った。
その笑顔に、ソラも——少しだけ、笑い返した。口元が、ほんの少し動いた。
自分で気づいた。
笑い返した、という感覚が確かにあった。
◆
悪魔区の食堂は、地球のどんな飲食店とも違った。
メニューには「溶岩スープ」「闇の精髄の煮付け」「永劫の苦悶を閉じ込めたゼリー寄せ」などが並んでいる。しかし食堂の雰囲気は親しみやすく、悪魔たちが笑いながら食事をしている。
ソラは「塩気のある普通のスープ」を頼んだ。
食レポ悪魔のベル兄は何でも食べた。地獄グルメと称して、地球では考えられない食材を軽々と食す。その「感想を述べる能力」が突出しており、食の情報を言語化する精度が笑界トップクラスだという。
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No.46
モンスター名:ベルゼブブ・ベル兄
分類:悪魔
芸人スタイル:食レポ芸人(何でも食う)
ストーリー概要:腐ったものから毒物まで何でも食べて感想を述べるベルゼブブ芸人・ベル兄。「地獄グルメ」シリーズが大ヒット。食品メーカーが持ち込む試作品の試食係を兼務し、年収が芸能界最高峰になる逆説的成功。
見どころ・テーマ:食と限界、グルメというジャンルへの挑戦
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「隣いい?」とベル兄が言った。
「どうぞ」
ベル兄が「闇の精髄の煮付け」を口にした。顔色一つ変えない。「うむ、旨い。今日は塩が些か多いが、許容の範囲じゃ。香りは昨日より良いな」と言って、また食べた。
「地球の食べ物は食べたことがありますか」とソラが聞いた。
「一度だけにございます。日本の出汁を使うた料理をな。衝撃であったぞ」
「どんな衝撃ですか」
「……一種類の旨みではなかった。昆布と鰹が合わさって、新たな何かになっておった。足し算にあらず、乗算のごとき味であったわ」
「うま味の相乗効果ですね」とソラが言った。「グルタミン酸とイノシン酸が共存すると、それぞれの単体より旨味が強く感じられる。この相乗効果は科学的に確認されています」
「……医師なのにグルメに詳しい?」
「栄養学の範囲です。食が体を作るので」
「笑界にはその相乗効果がないと以前は思うておったのじゃ」とベル兄が言った。「笑いが一種類では単純すぎる。されど複数の感情が混ざりあうと——単純な足し算にあらぬ何かが生まれるはずと信じておるのじゃよ。まだ証明には至っておらぬがな」
「今夜の笑界に、相乗効果はありましたか」とソラが聞いた。
「そなたが参ってから、あったぞ」とベル兄が言った。「笑えない医師という存在が、笑いの単純さを崩した。驚きと困惑と共感と——複数が混ざった」
ソラはその言葉を手帳に書いた。「笑いの相乗効果——複数の感情が混在する場において、笑素の量は単純加算ではなく乗算的に増加する可能性」
そこへギャラ交渉の鬼・マモ田が割り込んできた。
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No.49
モンスター名:マモン・マモ田
分類:悪魔
芸人スタイル:ギャラ交渉芸人
ストーリー概要:ギャラ交渉の鬼であるマモン芸人・マモ田。どんな仕事も「ギャラが安い」と断り続けるが、断るたびにギャラが上がり最終的に業界最高額に。「お金と笑いの関係」を赤裸々に描く経済コメディ。
見どころ・テーマ:富と芸術の矛盾、エンタメ産業の経済学
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「笑いの相乗効果についての情報料、頂戴いたしとうございます」
マモ田が割り込んできた。ギャラ交渉芸人として悪魔区で名高い存在で、全ての情報や発言に値段をつける。
「は?」
「あなた様、今メモなさいましたですな。その情報、いただいた以上、ちゃんとお代を払うてもらわんと商いになりまへんので」
「医師として記録することに対価は——」
「笑界に医師特例はございまへんのでね!」
「ではメモすることへの対価とは何ですか」
「情報の流通に対する報酬です! 笑界経済の基本です!」
ベル兄が「闇の精髄の煮付け」を食べながら「この混乱自体が笑素を生産しておるな」と実況し始めた。
マモ田が「その実況分、しっかり頂戴いたします!」と言った。
ベル兄が「実況料を払えば黙る、という選択肢を放棄します」と答えた。
三つ巴の混乱が食堂に広がった。ソラが「交渉のロジック構造として、マモ田の要求は情報財に対する著作権的主張だが、笑界においてその権利の根拠——」と分析し始め、マモ田が「その分析のご料金も、しかとちょうだいいたしますよ!」と叫んだ。
食堂中が爆笑した。
その混乱の中で、ソラの心臓の近くで何かが光った。
恐怖——ルールのない経済圏での生き方の恐怖が、笑いに変換された瞬間。「恐怖の石」が、かすかに輝いた。
◆
夜になると、悪魔区はさらに賑やかになった。
昼間より多くの悪魔たちが出てきて、あちこちで笑い声が上がっている。赤い空が暗くなり、代わりに建物の窓から光が漏れる。笑素が濃くなっているのか、空気が少し甘くなった。
恋愛毒舌芸人のアスミ、夢オチ専門芸人のインキュ、色気ネタのフェミニスト芸人のサキ——この三人との遭遇は、ソラが最も戸惑った場面だった。
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No.52
モンスター名:サキュバス・サキ
分類:悪魔
芸人スタイル:色気ネタ芸人
ストーリー概要:艶やかなネタで視聴者を魅了しながらも、最後は必ずフェミニズム理論で締めるサキュバス芸人・サキ。「色気の先にある笑い」をテーマに芸人として活躍しながらジェンダー論を発信。
見どころ・テーマ:欲望と知性、表面と深層の二重性
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No.51
モンスター名:インキュバス・インキュ
分類:悪魔
芸人スタイル:夢オチ専門芸人
ストーリー概要:全てのネタが夢オチで終わるインキュバス芸人・インキュ。観客は「また夢オチか」と思いながら毎回引きつけられる。「夢と現実の境界を笑いで溶かす」という哲学を持つ睡眠学者とコラボした異色コラボ回が話題。
見どころ・テーマ:夢と現実、繰り返しの中の変奏
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No.47
モンスター名:アスモデウス・アスミ
分類:悪魔
芸人スタイル:恋愛トーク芸人
ストーリー概要:恋愛の悩みを毒舌で解決するアスモデウス芸人・アスミ。「その相手、やめときな」という一言で百発百中の恋愛アドバイスが的中し、芸人として結婚相談所を開業。愛と笑いの共存を探る。
見どころ・テーマ:恋愛と毒舌、愛の本質をコメディで解く
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路地の角を曲がったとき、三人が前に立っていた。
アスミ——恋愛毒舌芸人、体格がよく、目が鋭い。インキュ——夢オチ専門芸人、どこかとろんとした目をしている。サキ——色気ネタとフェミニズムの両立を標榜する芸人、声が低く落ち着いている。
「ちょっといい?」とアスミが言った。
「何でしょうか」
「あなたの旅、聞いてもいい? 笑えない医師が笑界を旅してるって聞いて」
「……はい」
「座ろう」
路地の角のベンチに四人で座った。
「まず一つ、お聞きいたしまするが」とアスミが言った。「誰かを愛しみ奉りたると存じたることはおわしますか?」
「……定義によります。恋愛感情は神経科学的に——」
「その逃げ方、筋が通っとる」とサキが笑った。「一本気で、結構なことや」
ソラは止まった。
「逃げているつもりはありません。正確に答えようとすると定義が必要なので——」
「無意識の回避にございますな」とアスミが言った。「されど正直とも申せましょう。答えがたき問いに、そなたは専門用語という煙幕を張る。誰しもかくやはいたすもの、ただそなたの煙幕が医学用語なるだけで、同じことをなさっておるのでございます」
「……そうかもしれません」
インキュが「俺も同じ」と言った。「本当のことを言わないために、ネタを全部夢オチにする。現実に着地するのが怖いから」
「夢から目覚めることを恐れていますか」とソラが聞いた。
「怖い。夢の中は全部うまくいく。失敗しても夢オチにできる。でも現実は——着地したらそこが現実になる」
「それは患者の回避行動に似ています。痛みから目を逸らすことで今は楽でも、根本的な解決が遅れる。でも——」
「でも?」
「着地した事実は残ります。失敗しても、着地したという記録は消えない。それが次の地図になる」
インキュが「……なるほど」と言って、少し考えた。
サキが「欲望から逃げるよりも、欲望と向き合うた方が人は自由になれる——それがわたいの筋です」と言った。「笑いも同じ道理や。笑いたいのに笑えんという欲望を抑えるより、真っ向から向き合うた方が——」
「向き合った先に何がありますか」とソラが聞いた。
「分からない。でも逃げた先には何もない」
「そなたは誰かを愛しみたることありや?」とアスミがもう一度聞いた。
ソラは今度は一拍おいた。
「……いるかもしれません。過去に。当時は気づかなかった」
「いかなる御方であらせられますか?」
「……患者ではありません」とソラが言った。
アスミが笑った。「そこを否定なさるとは、正直なる御方にございますな」
「医師として患者への感情は明確に区別します」
「でも患者じゃない人には感情があった」
「……そうかもしれません」
ソラの顔が、わずかに変わった。医学的に言えば、皮膚血流量が増加した。
「照れてる」とサキが言った。
「……羞恥感情による末梢血管の——」
「かわいい」と三人が声を揃えた。
ソラは返す言葉を持っていなかった。それ自体が、答えだった。
◆
翌日、悪魔区の外れに海があった。
海というより「深淵」と呼ぶ方が正確かもしれない。色が地球の海と違う——透明でも青でもなく、深い赤みがかった色をしている。しかし水であることは確かで、波が立ち、潮の匂いがした。
レヴィアタン芸人のレヴ蔵は、深海から地上まで全ての海でロケをする芸人だ。「限界への挑戦」をテーマに、機材が毎回壊れるような過酷な環境に飛び込み続ける。
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No.48
モンスター名:レヴィアタン・レヴ蔵
分類:悪魔
芸人スタイル:海ロケ専門芸人
ストーリー概要:深海から地上まで全ての海でロケを行うレヴィアタン芸人・レヴ蔵。水圧で機材が毎回壊れる過酷ロケが人気番組に。「どこまで深く潜れるか」が視聴率に直結するという本末転倒の制作哲学を描く。
見どころ・テーマ:限界への挑戦、自然vs人間の笑えるドラマ
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「一緒に潜るかね?」とレヴ蔵が言った。巨大な海蛇の体で、陸に半分乗り上げながら話しかけてきた。
「……深海まで?」
「俺は毎回行く。今日は赤い海の二千メートル以深まで。機材は必ず壊れるが、それがコンテンツだ」
「医療機器を持ち込みます」
「壊れますよ」
ソラは少し考えた。「分かりました。では持たずに行きます」
「え?」とレヴ蔵が聞いた。「怖くないかね?」
「怖いです。しかし機材なしでどこまで診断できるか、試してみる価値があります。外科医として感覚だけで判断する訓練は、機器への過度な依存を防ぐためにも必要です」
「……論理的だな。では行こう」
海に入った。
最初の百メートルは光が届いた。レヴ蔵の案内で、ソラは水圧に体を慣らしながら降りていく。五百メートルを超えると光が消えた。千メートルで、持ち込もうとした体温計が水圧で壊れた——持たなくて正解だった。
「機器がないと、怖いかね」とレヴ蔵が(水中で、気泡を出しながら)聞いた。
「……違います」とソラは(同じく気泡を出しながら)答えた。「鮮やかです」
機器がなければ数値を見ない。数値を見なければ感覚が前に出てくる。水の温度の変化が皮膚で分かる。流れの方向が指先で分かる。生き物の気配が圧力の変化で分かる。
「医師として機器なしでいられるか、ずっと気になっていました」とソラが言った。
「なぜ」
「機器は医師の延長であるべきです。機器に医師が従属してはいけない。でも訓練しないと従属する」
「俺もそう考えてますよ。笑いの機材——カメラ、マイク、照明——が壊れたとき、本当に面白いものが出てくる。機材に頼りすぎると、機材のない状況で何もできんようになる。職人ってのは道具が壊れても手が動かなきゃいけませんからね」
「同じ構造ですね」
「同じですよ」
深海の底は静かだった。音がない。光がない。圧力だけがある。しかしソラは、その中で自分の心拍を確認し、水温を感じ、レヴ蔵の気配を追っていた。
「鮮やかです」ともう一度、水中でソラが言った。
気泡になった言葉が浮かんでいった。
機器のデータに頼る前に、感覚が世界を受け取っている——その事実を、ソラはこの深海で初めてはっきりと知った。
◆
悪魔区での最後の夜が来た。
一軒の酒場に、三世代の芸人が揃っていた。
大御所アーク師匠、ロード社長、量産型若手のフィー助——この三者が一堂に会する夜があった。
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No.53
モンスター名:アークデーモン・アーク師匠
分類:悪魔
芸人スタイル:大御所芸人
ストーリー概要:50年以上第一線で活躍するアークデーモン大御所・アーク師匠。若手に昔のエピソードを語り続けるが、話が面白すぎて弟子が全員師匠モノマネ芸人になってしまう。師匠の影を超えようとする弟子たちの群像劇。
見どころ・テーマ:師匠と弟子、偉大な先人の影響と自立
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アーク師匠は五十年第一線で活躍する存在で、話が面白すぎるあまり弟子が全員師匠モノマネ芸人になってしまった。今夜も弟子二人が同じテーブルで師匠の口調を完璧に真似ていた。本人はそれを笑って見ていた。
ロード社長は芸能事務所の経営者でありながら舞台にも立つが、会社が赤字のときだけネタが面白くなるという謎の逆相関を持つ。今夜は「少し面白い」と評されていたので、経営状態はやや赤字らしかった。
フィー助は量産型の若手芸人で、個性を出そうとするたびに「キャラ被り」と言われる。今夜も「俺独自のキャラを試したい」と言いながら、三種類試して全部「被ってる」と言われていた。
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No.55
モンスター名:フィーンド・フィー助
分類:悪魔
芸人スタイル:量産型バイト芸人
ストーリー概要:芸能事務所に大量にいる量産型若手として生き残るフィーンド芸人群。主人公フィー助が個性を出そうと奮闘するが、個性を出すたびに「キャラ被り」と言われる理不尽な業界の洗礼を受ける青春コメディ。
見どころ・テーマ:個性と没個性、量産の時代の自分探し
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No.54
モンスター名:デーモンロード・ロード社長
分類:悪魔
芸人スタイル:事務所社長芸人
ストーリー概要:芸能事務所の社長として経営しながら自らも舞台に立つデーモンロード・ロード社長。経営判断とネタの質が連動する奇妙な芸人像。会社が赤字の時だけネタが面白くなるという逆相関が芸能界の謎として語られる。
見どころ・テーマ:経営と創造、ビジネスとアートの相克
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ソラが隣のテーブルから観察していると、フィー助が「この人間も混ざりませんか」と声をかけてきた。
「……よろしいですか」
「三者の話を聴いてほしい」とアーク師匠が言った。「客観的な意見が欲しい」
「では聴きます」
三者が話し始めた。
アーク師匠が「余の弟子が全員余のモノマネ芸人になってしまったのじゃよ。これは余の失敗か、それとも成功と見るべきか——いかが思うや?」と言った。
ロード社長が「弊社の社員も、私の経営スタイルを全員模倣し始めまして。参考にしていただける部分とそうでない部分がございますが、その区別をどのようにお伝えすればよいか、ご意見をいただけますでしょうか」と言った。
フィー助が「俺はアーク師匠の影響を受けている。でも個性がないと言われる。影響を受けることと個性をなくすことは同じなのか」と言った。
ソラは三者の話を聴きながら、手帳に整理した。
「師匠から弟子へ。経営者から社員へ。先輩から後輩へ。三者はそれぞれ異なる形で、同じ問いに直面しています」
「同じ問い?」
「自分が積み上げたものを、どう次に渡すか——です。そして渡されたものを受け取った側が、それをどう自分のものにするか」
静寂が落ちた。
アーク師匠が「……そういう言い方をされたことはなかった」と言った。
「モノマネ芸人になった弟子たちは、師匠の表現を受け取った。それが次のステップで、彼らが師匠の表現を超えるかどうかは、彼ら次第です。医師の指導でも同じで、教えたことを完全に真似るフェーズを経てから、自分の手技が生まれます」
ロード社長が「……私の経営スタイルの模倣も、一つのフェーズとして捉えることができますね。大変貴重なご示唆、ありがとうございます」と言った。
フィー助が「俺はまだ受け取ったものを自分のものにしているフェーズかもしれない。キャラ被りじゃなくて」と言った。
アーク師匠が静かに笑った。「……うむ。お主らは、笑いよりもよきことを言うておるわ」
三人が、それぞれの意味で笑った。
ソラは——その笑いが何を意味するか、この旅を始めたときより分かっていた。笑いとは伝達の最終形態だ。言葉で伝わらないものが、笑いになって届く。
そしてソラは——笑っていた。
口元が動いた。声は出なかったが、確かに。
「釣られた」と後で気づいた。笑いの感情に引っ張られて、自分も動いた。医師として「釣られ笑い反応」と記録した。
「恐怖の石」が、その夜、完全に光を放った。
「笑えない自分」への恐怖が、少しずつ溶けてきた証——その恐怖が笑いへと変換された瞬間の結晶だった。
ソラは夜、日誌に書いた。
「第五の笑石『恐怖の石』取得。この旅以前、私は『笑えないことへの恐怖』を持っていることに気付いていなかった。今日初めて、釣られて口元が動いた。声は出なかった。でもそれが笑いの始まりだとすれば、医師として記録しておく」
「笑界の空は今夜も赤い。でも不思議と、怖くない」




