~北九州・境界観測録~ 砂(短編)
布石4作目
「100万ドルの夜景」と呼ばれているらしい。
展望台から見下ろす北九州の街明かりは、宝石を撒き散らしたように眩い。
だが、しばらく見つめていると、妙な胸騒ぎがした。
何かが、少しだけ合っていない。
ピントがずれているわけじゃない。網膜に映る光の粒が、パズルのピースを無理やり嵌め込んだような、微かな「軋み」を立てているのだ。
あの衒学者――九十九なら、万年筆の先で宙をなぞりながら、こう言うだろう。
「英国式のはずなのに、どうにもそう見えない。レンガの積み方ってのは、ああいう微かな違和感を生むんだ。世界が……少しだけ、重ね書きされているのさ」
なるほど、と思った。
違って見えているだけで、間違っているわけじゃない。
俺はサーモスのボトルから、最後の一口のコーヒーをカップに注いだ。
立ち昇る湯気が、一瞬だけ街の灯りを歪ませる。その匂いの中に、潮騒のまじった、重たく古い砂の匂いが混ざった気がした。
俺はその場を離れ、125ccの鉄の馬に火を入れた。
山を下る道すがら、高架橋の上を長い貨物列車が横切っていくのが見えた。
――あれは、くろがね線だったか。
見慣れているはずの車体が、深い砂底を泳ぐ巨大な魚のように、音もなく闇を滑っていく。
そのとき、ふと気づいた。
夜景も、列車も、何も変わっていない。
ただ、自分の“見え方”の方が、少しだけズレている。
いや――俺の立っている場所が、ほんの数ミリだけ「砂の上」のように不安定に浮いているのだ。
そう考えると、すべて辻褄が合った。
だから、それ以上は気にしないことにした。
……それから数日後。
ふと思い立って、スマホの写真フォルダを見返した。
あの日撮ったはずの夜景の写真は、どれも真っ白にノイズが走っていた。
いや、ノイズではない。
光の一粒一粒が、すべてさらさらとした「白い砂」に変質して、画面を埋め尽くしていたのだ。
スワイプするたびに、スマホのスピーカーから「ザリッ……」と、靴底で砂を噛むような乾いた音が響いた気がした。
俺は静かに画面を閉じ、もう一度だけ、皿倉山の方角を振り返った。
——あのときの「砂」が、まだどこかに残っている気がして。
読んでいただきありがとうございます。
次回作(長編)は5月15日から投稿予定です。




