新しい手帳と、春を待つ常備菜
「……りっちゃん、字が綺麗すぎて、なんだか『判決文』みたいだけど」
愛の笑い声が、キッチンの湯気に溶ける。律子の手帳に並ぶのは、かつてのような『赤字・黒字』の二元論ではない。
『一月:鰤の照り焼き。宮脇さんへの内祝い。糸島の宿、予約すること』
律子の整然とした筆跡は、もはや自分を守るための武装ではなく、愛を未来へ誘うための招待状だった。
「……これからは、一円単位で自分たちを縛るのはやめにするわ」
律子は小松菜の根元を、迷いのない包丁さばきで切り落とした。ザク、という小気味よい音が響く。それは、彼女が「独り」で背負ってきた正しさとの、決別の音だった。
「愛。あなたが楽をできるように、今日は常備菜をたくさん作りましょう。私が法廷で戦っている間、あなたがこの部屋で、独りじゃないと感じられるように」
二人は並んでキッチンに立った。
かつて「五万円」で震えていた食卓は、「七万円」の厚みを経て、今、名前のない豊かさへと変質している。
窓の外、福岡の夜空を舞う雪は、二人の窓に触れる前に溶けて消えた。
愛が、律子の手帳の余白に、こっそりと書き足す。
『一月末:あまおうを二パック。りっちゃんと食べる』
律子はそれに気づき、少しだけ口角を上げた。
――けれど、律子のバッグの奥。
音を消したスマホが、暗闇の中で一度だけ、毒蛇の目のような光を放った。
未読通知一件。
それは、二人が書き始めた美しいライフログを、無残に引き裂くための序曲かもしれない。
それでも、今、この部屋を満たしている出汁の香りが、二人の「現在」を繋ぎ止めていた。




