一二月の湯気と、二人の公正証書
「……愛。これ、パートナーシップ契約の公正証書の案よ」
水炊きの湯気の向こうから差し出されたのは、慈しみではなく、計算し尽くされた「防衛計画書」だった。
律子の瞳には、愛を愛おしむ光と同時に、愛を完全に管理下に置こうとする、獲物を狙う法曹家としての鋭利な光が混じっていた。
「これを結べば、あなたは法的に私の遺言執行者になり、死後の事務も任せられる。……私たちは、これでようやく『他人』という不安定な立場から卒業できるの」
愛は、差し出された書類の束を見つめた。
弁護士・大野律子が作成した、一分の隙もない条文。そこには愛が望んだ「安心」が書かれているはずだった。けれど、びっしりと並んだ活字の羅列は、愛には冷たい「鉄格子の設計図」のように見えた。
「……りっちゃん、これ、もし私が心変わりしたら、どうなるの?」
愛が震える声で尋ねると、律子はアクをすくう手を止めずに答えた。
「第十二条を見て。その場合は、この部屋からの即時退去と、生活費の精算義務が発生するわ。……もちろん、そうならないための契約よ」
律子は微笑んだ。だが、愛の口に運んだ「はかた地どり」の濃厚な旨みは、その瞬間、不気味なほど無機質な食感へと変わった。
律子は愛を「守る」と言った。
だが、その守り方は、愛を「律子の定義する家族」という檻の中に閉じ込めることと同義ではないのか。
「……美味しいね、りっちゃん」
愛は、味のしなくなった雑炊を飲み込んだ。
七万円の予算。完璧な公正証書。自分たちは自由を手に入れた。
けれど、窓の外、雨に濡れる福岡の街は、自分たちを祝福しているのではなく、檻の中から出られない二人を冷笑しているように思えた。
その時。
テーブルに置かれた律子のスマホが、バイブレーションを響かせた。
表示されたのは、未登録の番号。
律子がそれを見た瞬間、彼女の完璧な仮面が、初めて恐怖で歪んだのを、愛は見逃さなかった。




