七月の入道雲と、苦すぎたゴーヤ
七月。福岡の夜は、熱を帯びたまま冷めることを忘れていた。
西新のマンションのキッチン。愛は、冷え切ったゴーヤチャンプルーを前に、一人で立ち尽くしていた。
ゴーヤのワタは、律子に教わった通りスプーンで執拗にこそげ落としたはずだった。けれど、皿の上に残ったそれは、舌が痺れるほどに苦い。
(……結局、何一つ消えてなんかないんだ)
親を捨てた罪悪感も、未来への不安も、そして今、律子が自分の知らない場所で誰かと笑っているかもしれないという、醜い独占欲も。
午後十時半。鍵が回る音が、静寂を切り裂く。
「ただいま……。ごめんなさい、愛。遅くなったわ」
戻ってきた律子のスーツには、知らない誰かの煙草の匂いと、都会の排気ガスの匂いが染み付いていた。
「……サカグチさん、っていう人。楽しかった?」
愛の声が、自分でも驚くほど低く震える。律子がバッグを置く手が止まる。
「……仕事よ。離婚調停。夫からDVを受けている男性の、緊急の案件だったの。……ごめんなさい。弁護士として、あなたにこんな不安を抱かせるなんて、失格ね」
律子は、愛の隣に座った。その指先には、ペンだこ。法律という武器で誰かを守り、戦ってきた女の指だ。
「……本当は、依頼人の事情を家族以外に話すのは、最大のタブーよ。でも、今、あなたを失うこと以上に恐ろしい罰なんて、私には思いつかない」
律子が愛の手を取り、自分の頬に寄せる。
「彼はね、家族という牢獄で自分を殺していた。それを見て、私はあなたの勇気を思い出していたの。……あなたが久留米で、あのラードのような愛を振り切って私を選んでくれたことが、どれほど私の救いになっているか」
愛の胸の中にあった、粘りつくような苦みが、律子の熱に溶けていく。
二人は、冷えたゴーヤチャンプルーをレンジで温め直した。
湯気と共に立ち上がる、鰹節の香りと、豚肉の脂の匂い。
「……やっぱり苦いわね、これ」
律子が眉を潜めて笑う。
「りっちゃんの教え方が悪いんだよ」
「あら、私は完璧に教えたはずよ」
月七万円。
かつて律子が「防衛戦」と呼んだその数字は、今や二人が共に生きるための「自由の会費」へと変わっていた。
明日になれば、また小倉から着信があるかもしれない。久留米から、涙ながらの手紙が届くかもしれない。
けれど、この苦いゴーヤを分け合い、喉を焼くような夏を越えていけるのなら、その食卓に値段をつける必要など、もうどこにもなかった。
「……ねえ、りっちゃん。明日の朝は、残ったゴーヤでオムレツにしようか」
「いいわね。……今度は、私がワタを取るわ」
福岡の街が、静かに眠りにつく。
二人の食卓の上には、洗い場に置かれた二つの皿と、また新しく始まる、ままならない明日の予感だけが満ちていた。




