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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン1

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4/15

高良山(こうらさん)の風と、溶けないラード


 小倉での「決戦」から二週間。

 大野律子は、実家からの着信を拒否し続けていた。心は削れていたが、愛と囲む七万円の食卓だけが、彼女の正気を保たせていた。

 だが、その安息は、愛のスマホに届いた一通の動画メールによって、あっけなく崩れ去る。

「……見て、りっちゃん。私の甥っ子。高良大社の階段を一人で登れるようになったんだって」

 愛の故郷、久留米。

 画面の中で笑う家族たちは、愛のセクシャリティを知らない。愛は職場でこそ堂々と「レズビアンです」と公言しているが、久留米の実家には「仕事が楽しくて、まだ結婚は先」と、優しい嘘を突き通していた。

 その数日後、愛に「刺客」が放たれた。

 久留米で老舗の呉服店を営む親戚筋からの、見合い話だ。律子の場合とは違い、それは「愛ならきっと喜んでくれる」という、無垢で残酷な善意に満ちていた。

「……りっちゃん、私、どうしよう」

 キッチンで野菜を切る愛の手が、目に見えて震えていた。

「……断ればいいじゃない。私は小倉で、もう親を捨てたわよ」

 律子の声は、自分でも驚くほど冷淡だった。正論という名の刃。弁護士としての自分が、最愛のパートナーを追い詰めていた。

「そんなに簡単に言わんで……。私の親は、りっちゃんのとことは違うとよ。お父さんもお母さんも、私がレズっち知ったら、悲しむどころじゃなか。自分の育て方が悪かったっち、自分ば責める人たちなんよ」

 久留米弁。

 愛が感情を露わにする時だけ漏れるその音は、律子にとっての「小倉の音」よりもずっと、粘り気があって逃げ場がないように聞こえた。

 その夜、二人は西鉄久留米駅近くのラーメン屋にいた。

 愛の母が、「どうしても一度会ってほしい」というお見合い相手を連れて、久留米から出てきたのだ。律子は「友人」として同席することを強く望んだ。監視、あるいは愛を逃がさないための、自虐的な確認作業だった。

 運ばれてきた久留米ラーメン。

 白濁したスープの上に、分厚いラードの層が浮いている。その濃厚な香りが、律子の鼻を突いた。

「愛、あんたはこの店のラーメンが好きやったもんねぇ」

 愛の母は、幸せそうに娘を見つめる。お見合い相手の男性も、誠実そうな人物だった。彼は愛の「仕事熱心な姿」に惹かれているという。

 愛は、笑っていた。

 律子には分かる。それは、彼女が職場でカミングアウトしている時の凛とした笑顔ではなく、親の期待というラードに塗り固められた、窒息しそうな「良い娘」の仮面だ。

「……愛さん。僕との話、前向きに考えていただけませんか」

 男性の問いかけに、愛が口を開こうとした瞬間。

 律子が、テーブルの下で愛の手を強く握った。爪が食い込むほどの強さで。

(言わないで。その場しのぎの『はい』なんて、絶対に言わないで)

 律子の内なる叫びが、無言の圧力となって愛に伝わる。

 愛は、律子の手を見つめ、それから母を見た。

「……お母さん。ごめん、この話、受けられん」

「えっ、愛? 何でね。あんなに写真見て『良さそうな人ね』っち言いよったやんか」

「……私、他に、一緒に生きていきたい人がおるとよ。久留米には、もう帰らん」

 愛の声は震えていたが、真っ直ぐだった。

 母の顔から色が消え、ラーメンの湯気が二人の間にカーテンのように垂れ込める。

 天神へ戻る西鉄電車の車内。

 二人は一言も話さなかった。愛は窓の外を見つめ、静かに涙を流していた。

 マンションに戻り、律子がいつものように食事の支度をしようとすると、愛が背中から抱きついてきた。

「……りっちゃん。私、ひどい娘だよね」

「……私もよ。私たちは、二人揃って親不孝者ね」

 律子は、愛の冷えた手を包み込んだ。

 今夜の夕食は、作る気になれなかった。冷蔵庫には、七万円の予算で買った新鮮な糸島野菜が詰まっている。けれど、今の二人には、この「豊かな食材」さえも、誰かを傷つけた代償のように感じられた。

「……明日から、また二人で食べよう。久留米のラーメンより、ずっと美味しいものを私が作るから」

 愛の涙が、律子の肩を濡らす。

 二人の「食費」は七万円になった。けれど、それだけで守れるほど、二人の絆は甘くはなかった。

 福岡の夜景は相変わらず美しい。だが、その光の数だけ、壊さなければならなかった「普通」があることを、二人は痛いほど知っていた。

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