モノレールと、ぬか炊きの檻
小倉駅の改札を出た瞬間、肺を焼いたのは潮風に混じる鉄錆の匂いだった。
大野律子にとって、この街の空気は粘膜に絡みつく重油に近い。天神の乾いた風でコーティングしたはずの「大野先生」という仮面が、一歩ごとに剥がれ落ちていく。
実家の扉を開けた瞬間に鼻を突いたのは、百年続く「ぬか床」の酸っぱい芳香だった。それは大野家の血統そのもの。先祖代々の女たちが指を汚し、継ぎ足し、発酵させてきた「正しさ」の匂いだ。
「律子、帰り。……まずは食べなっせ」
居間では、作務衣を着た父・重雄が、化石のような沈黙でぬか炊きの鯖を解体していた。
食卓には、脂の乗った鯖と、豪快にぶつ切りにされたがめ煮が並ぶ。愛が細かく刻んでいたあの根菜とは対極にある、素材の暴力。
「……釣書の男は、柳川でも指折りの跡取りたい。律子、あんたも三十ば過ぎて、自分の市場価値がどうなっとるか分かっちょるやろ」
重雄の言葉は、まるで法廷での最終陳述のように重く、断定的だった。
「市場価値で結婚を決めるなら、私は弁護士を辞めています」
律子は標準語を崩さない。それが、彼女に残された唯一の防壁だった。
「仕事、仕事っち……。病気した時、誰が隣におるとな。死んだ後、誰がこの家のぬか床ば守るとか。あんた一人が我慢すれば、みんな収まるとぜ」
「私が我慢すれば、誰の『普通』が守られるの? 近所の人? お父さんのメンツ?」
『律子!』
重雄が食卓を叩いた。北九州特有の、激しい語気が空気を震わせる。
『理屈じゃなか! これが世間っちいうもんよ! 恥ばかかせな!』
律子の脳裏に、西新のマンションで食べた三百円の苺の甘さが閃光のように走った。あの苺は、世間体という肥土ではなく、自分たちの手で稼いだ純粋な喜びから生まれていた。
「……お父さん。私はね、自分の葬儀の形式も、死後の財産管理も、すべて法的に手続きを済ませているわ。あなたたちが心配する『一人で死ぬ恥』は、私の論理ですでに処理済みよ。だから――」
律子は立ち上がり、初めて父の目を真っ向から射抜いた。
「――このぬか床の匂いを、私の愛する人にまで押し付けないで」
翌朝、逃げるように乗り込んだ特急ソニックの窓の外で、景色が音もなく流れていく。
折尾、赤間、香椎。駅を過ぎるごとに、律子の肺から古い血の匂いが抜けていく。
西新の部屋に入り、愛の柔らかい体に顔を埋めた。愛の服からは、安価な柔軟剤の匂いと、少しだけ焦げたトーストの匂いがした。
「……おかえり。小倉のぬか炊き、お土産に持たされなかった?」
「いらないわ、あんな重いもの」
律子は愛の手を引き、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、そこには昨日から計算して買っておいた、七万円の予算内の「静かな自由」が並んでいた。
「愛、今夜は私が作る。……誰にも汚されない、私たちのための献立を」
手帳の「+20,000」という数字が、今はまるで、自分たちを外界から守るための暗号のように見えた。




