白い細根、あるいは執念の食卓
控訴状が届いた日から、律子の時間は止まったまま、濁流に飲み込まれたようだった。
一審判決で勝ち取った内縁関係の承認という牙城を、相手側は執拗な言葉の礫で削りにかかってくる。提出された準備書面には、佐野とパートナーのプライバシーを暴き立てるような、醜悪な憶測が書き連ねられていた。
「……また、書き直しよ」
深夜二時。西新のマンションの書斎で、律子は青白いモニターの光に照らされていた。頬はこけ、かつて鋭い光を放っていた瞳は、連日の徹夜で赤く充血している。
リビングから、パチパチと軽快な音が聞こえてくる。
愛が、台所でフライパンを振っていた。
「りっちゃん。……一旦、パソコン消して。五分でいいから」
愛が運んできたのは、湯気の立つ二皿だった。強火で一気に仕上げた、シャキシャキの「もやし炒め」。胡麻油と塩、鶏ガラスープで和えた「もやしナムル」。炒めは律子のために、ナムルは自分のために。
あの頃、まだ二人が息を潜めるようにして食べていた、あの最安価な食材。一袋三十円。どんなに物価が上がっても、裏切ることのない貧者の味方。
「……今さら、もやし?」
律子が、枯れた声で力なく笑った。
「そう。今さら、もやしだよ。……りっちゃん、今、すごく高いものばかり食べようとして、心がお腹壊しちゃってるでしょ? 三千円の惣菜も、一万円のケーキも、今のりっちゃんには重すぎるんだよ」
愛は、律子の前に箸を置いた。
「もやしってね、細くて白いけど、土の中でじっと耐えて、一気に伸びるんだよ。……今の私たちみたい。相手がどんなに汚い言葉で攻めてきても、私たちの根っこは、この三十円のもやしみたいに、誰にも汚せない場所にあるんだよ」
律子は、震える手でもやしを一口運んだ。
熱い。そして、驚くほど、甘い。
二人が積み上げてきた時間の、剥き出しの味がした。
「……美味しい。……愛、私、負けたくない。佐野さんのためだけじゃない。もやしを美味しいと思える私たちの毎日を、あんな言葉で汚させたくない」
律子の目から、一筋の涙がこぼれた。もやし炒めの上に、静かに落ちた。
律子は、もやしを口に運んだまま、しばらく動けなかった。
「……控訴審で、食卓の写真をもう一度出すわ。今度は、このもやしの写真も加えて」
律子はもやしを力強く咀嚼した。胃の奥から、じわりと熱が広がっていく。
翌朝。律子の目の下には、まだ隈があった。けれど、胸元のブローチを一度だけ指先で触れてから、律子はドアを開けた。




