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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン3

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紙の上の晩餐、あるいは三万字の足跡

温泉から戻った翌週。五月の柔らかな午後の光が、西新のマンションのリビングに斜めの縞模様を描いていた。

 今日は、律子は大きな民事訴訟の証人尋問で一日不在。愛の手芸の注文も一段落し、部屋には久方ぶりの静寂が満ちていた。

 愛は、ソファの隅で一冊の分厚いアルバムを開いた。

 スマホの中のデジタルなデータではなく、愛が夜な夜なプリントアウトし、余白に一言ずつメモを添えてきた、生活の年表だった。

「……これ、懐かしいな」

 最初のページ。まだ二人が小倉や久留米の影に怯え、この部屋で息を潜めるようにして食べていた頃の献立。

 そこには、もやしと豚こま肉を炒めただけの、驚くほど質素な一皿が写っていた。

 ――「怖かったけど、りっちゃんが美味しいって言ってくれた。味は少し薄かったかな」――

 下手な字で書かれたメモ。あの時の不安な胸の鼓動が、紙の感触を通して指先に蘇る。

 ページを捲る。

 あの週末、奮発した糸島の牡蠣。潮の香りと、律子の誇らしげな横顔。ドアを汚された夜、泥の中から拾い上げるようにして作った、温かなポテトサラダ。法廷で家族だと認められた日の、あの鯛の塩焼き。

「こんなに重かったんだ、このアルバム」

 愛は、ページをめくる手を止めた。律子が言葉で外敵から守り、愛が火を灯して内側から温めてきた。その積み重ねが、この一冊にある。

 最新のページには、温泉宿で食べた、重雄の昆布と愛の梅干しが並んだ朝食の写真がある。以前のような切実な貧しさはない。けれどそこには、自立した二人が選び取って共にいるという意志が写り込んでいた。

 ふと、アルバムの最後、まだ何も貼られていない真っ白なページに目が止まる。

 ここから先、自分たちは何を貼っていくのだろう。

「……私たち、随分遠くまで来たんだね、りっちゃん」

 愛は立ち上がり、キッチンへ向かった。今夜、尋問を終えてボロボロになって帰ってくるであろう律子のために。

 高級なデリでも、効率的な惣菜でもない。あの最初のページにあった、もやしと豚こま肉の炒めものを、今の二人が持てる最高の技術と、重雄の昆布の出汁で、もう一度作り直してみようと思った。

 それは過去への退行ではなく、遠くまで来た二人が、もう一度原点に手を触れるための選択だった。

 フライパンに油を引いた、その瞬間。

 愛のスマホが震えた。

 画面には、宮脇からのメッセージが表示されていた。

『愛さん、落ち着いて聞いて。……佐野さんの家の前に、また例のスプレーで落書きがされた。今度は、もっとタチが悪いわ』

 アルバムが、パタンと閉じた。

 春の光が遮られ、部屋に冷たい影が落ちる。

 平和は、まだ、訪れてはいなかった。

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