紙の上の晩餐、あるいは三万字の足跡
温泉から戻った翌週。五月の柔らかな午後の光が、西新のマンションのリビングに斜めの縞模様を描いていた。
今日は、律子は大きな民事訴訟の証人尋問で一日不在。愛の手芸の注文も一段落し、部屋には久方ぶりの静寂が満ちていた。
愛は、ソファの隅で一冊の分厚いアルバムを開いた。
スマホの中のデジタルなデータではなく、愛が夜な夜なプリントアウトし、余白に一言ずつメモを添えてきた、生活の年表だった。
「……これ、懐かしいな」
最初のページ。まだ二人が小倉や久留米の影に怯え、この部屋で息を潜めるようにして食べていた頃の献立。
そこには、もやしと豚こま肉を炒めただけの、驚くほど質素な一皿が写っていた。
――「怖かったけど、りっちゃんが美味しいって言ってくれた。味は少し薄かったかな」――
下手な字で書かれたメモ。あの時の不安な胸の鼓動が、紙の感触を通して指先に蘇る。
ページを捲る。
あの週末、奮発した糸島の牡蠣。潮の香りと、律子の誇らしげな横顔。ドアを汚された夜、泥の中から拾い上げるようにして作った、温かなポテトサラダ。法廷で家族だと認められた日の、あの鯛の塩焼き。
「こんなに重かったんだ、このアルバム」
愛は、ページをめくる手を止めた。律子が言葉で外敵から守り、愛が火を灯して内側から温めてきた。その積み重ねが、この一冊にある。
最新のページには、温泉宿で食べた、重雄の昆布と愛の梅干しが並んだ朝食の写真がある。以前のような切実な貧しさはない。けれどそこには、自立した二人が選び取って共にいるという意志が写り込んでいた。
ふと、アルバムの最後、まだ何も貼られていない真っ白なページに目が止まる。
ここから先、自分たちは何を貼っていくのだろう。
「……私たち、随分遠くまで来たんだね、りっちゃん」
愛は立ち上がり、キッチンへ向かった。今夜、尋問を終えてボロボロになって帰ってくるであろう律子のために。
高級なデリでも、効率的な惣菜でもない。あの最初のページにあった、もやしと豚こま肉の炒めものを、今の二人が持てる最高の技術と、重雄の昆布の出汁で、もう一度作り直してみようと思った。
それは過去への退行ではなく、遠くまで来た二人が、もう一度原点に手を触れるための選択だった。
フライパンに油を引いた、その瞬間。
愛のスマホが震えた。
画面には、宮脇からのメッセージが表示されていた。
『愛さん、落ち着いて聞いて。……佐野さんの家の前に、また例のスプレーで落書きがされた。今度は、もっとタチが悪いわ』
アルバムが、パタンと閉じた。
春の光が遮られ、部屋に冷たい影が落ちる。
平和は、まだ、訪れてはいなかった。




