湯煙の告解、あるいは予算外の休日
週末、二人が降り立ったのは、福岡の奥座敷・二日市温泉だった。
万葉の時代から続く古い湯の町。天神の喧騒から電車でわずか数十分だが、そこには立ち止まることを許さない効率の風は吹いていない。
「……こんな贅沢、いいの? 判決のご褒美より、ずっと高い宿じゃない」
愛が、歴史を感じさせる木造建築を見上げて、少しだけ気後れしたように呟いた。
「いいのよ、愛。……私たちの防衛費には、たまにはこういう軍事演習も必要なの」
律子は冗談めかして言ったが、その瞳には切実な色が宿っていた。
案内された部屋には、源泉掛け流しの内湯がついていた。檜の香りと、硫黄の微かな匂い。二人は言葉を交わさず、ただ、乳白色の湯の中に身を沈めた。
「……ねえ、りっちゃん。私のブローチ、着けてくれないんだね」
愛の声が、湿った空気に溶けるように響いた。
律子は、湯面を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……ブローチを手に取った夜から、ずっと考えていたの」
律子の指先が、湯の中で小さく震えた。
「怖かったのよ、愛。あなたが私の知らない場所で、自分を輝かせ始めていることが。……私は、あなたを月七万円という鳥籠の中に閉じ込めておきたかった。それが愛だと信じていたから。弁護士として成功するほど、鎧を厚くするほど、あなたの笑顔がなければただの荒野だと気づけなかった。三千円のオードブルは、砂の味がした」
愛は、湯の中で律子の手に触れた。
「……私もね、怖かったよ。りっちゃんが遠くに行っちゃうみたいで。だから、必死に針を動かしたの。自分で稼いで、りっちゃんが疲れた顔で帰ってきた時に、ちゃんと隣にいたかった。お金じゃなくて、自分の力で」
二人の指が、熱い湯の中で絡み合う。
「……愛。新しい約束をしましょう。日曜の夜だけは、二人で一から出汁を引く。それが、私たちのルールよ」
律子の言葉に、愛がようやく、あの頃のような瑞々しい笑顔を見せた。
「……うん。じゃあ、明日の朝は、重雄さんの昆布、持ってきたんだ。宿に器具を借りて、作ってみようよ」
翌朝。宿の好意で借りた簡単な調理器具と、持参した道具で、二人は自分たちだけの朝の献立を囲んだ。
重雄の昆布で丁寧に引いた、透き通るようなお吸い物。よし子の野菜で作った、滋味深い煮物。そして、愛が自分の稼ぎで買った、あの紀州産の梅干し。
「……美味しい」
律子が、深呼吸するように呟いた。
帰りの電車。律子の胸元には、愛が編んだ深い緑色のブローチがあった。




