自立の苦味、あるいは空席の献立
五月の雨は、天神の街を優しく、けれど執拗に濡らし続けていた。
午後六時。開店直後の「ラルク」は、まだ客の姿もまばらで、雨音だけが心地よいリズムを刻んでいた。
「あら、愛さん。今日は一人?」
カウンターの中でライムを切り分けていた宮脇が、顔を上げて少しだけ意外そうに眉を上げた。
「……うん。りっちゃん、今日は大きな案件の打ち合わせで遅くなるって」
愛は、いつもの指定席ではなく、隅っこの小さなテーブル席に腰を下ろした。その手には、自作の手芸作品が詰まったトートバッグが重そうに握られている。
「宮脇さん。……私、なんだか怖くなっちゃった」
宮脇は手を止め、愛の前に静かに炭酸水を置いた。
「何が? 作品、あんなに評判じゃない。ネットでも『西新の魔法の手』なんて呼ばれてるって聞いたわよ」
「……お金が、入ってくるのが怖い。自分の口座に、今まで見たこともないような数字が並んでいくのが、りっちゃんと私の間にある何かを、どんどん削り取っていくみたいで」
愛は、グラスの結露でテーブルに小さな円を描いた。消えた。
「宮脇さん。……りっちゃん、最近、私の作ったものを食べてくれないの。買ってきた高いオードブルの方が効率がいいからって。……私の手芸が売れれば売れるほど、りっちゃんの顔が怖くなっていく」
宮脇は、カウンターから出て愛の対面に座った。少し間を置いてから、静かに問うた。
「愛さんの手芸、今月一番売れたのって、どの作品か知ってる?」
「……え? この前出した、地味な緑色のブローチ。自分でも、なんでかなって思ったんだけど」
「そうよ。みんな、その『地味な緑』が好きなの。派手じゃなくて、でも確かに温かい。……あなたが本当に作りたいものって、何?」
愛は答えなかった。バッグの中から、一つのブローチをそっと取り出した。深い緑色の糸で編まれた、質素な、けれど力強い作品だった。重雄がくれた昆布の色に似ていた。
「……これ、りっちゃんにプレゼントしようと思って作ったの。でも、渡せなかった。今のりっちゃんには、こんな安っぽい糸、必要ないんじゃないかって」
「渡しなさい、愛さん。それを拒絶するか、抱きしめるか。それは律子さんの問題よ」
帰り道。西新へ向かう地下鉄の中で、愛はそのブローチを手の中に包んだ。
夜、十一時。マンションのドアを開けると、玄関には律子の高いヒールが乱雑に脱ぎ捨てられていた。
キッチンでは、律子が一人、赤ワインをグラスに注ぎ、無表情に壁を見つめていた。テーブルには、誰にも送られなかったメールの下書きが、スマホの画面に光っていた。
愛は、震える手で、その緑色のブローチをテーブルの上に置いた。
「……りっちゃん。これ、作ったんだ。……受け取ってくれる?」
律子は、ワイングラスを置いた。ブローチをしばらく見つめた後、静かに手を伸ばした。




