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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン3

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23/65

自立の苦味、あるいは空席の献立

五月の雨は、天神の街を優しく、けれど執拗に濡らし続けていた。

 午後六時。開店直後の「ラルク」は、まだ客の姿もまばらで、雨音だけが心地よいリズムを刻んでいた。

「あら、愛さん。今日は一人?」

 カウンターの中でライムを切り分けていた宮脇が、顔を上げて少しだけ意外そうに眉を上げた。

「……うん。りっちゃん、今日は大きな案件の打ち合わせで遅くなるって」

 愛は、いつもの指定席ではなく、隅っこの小さなテーブル席に腰を下ろした。その手には、自作の手芸作品が詰まったトートバッグが重そうに握られている。

「宮脇さん。……私、なんだか怖くなっちゃった」

 宮脇は手を止め、愛の前に静かに炭酸水を置いた。

「何が? 作品、あんなに評判じゃない。ネットでも『西新の魔法の手』なんて呼ばれてるって聞いたわよ」

「……お金が、入ってくるのが怖い。自分の口座に、今まで見たこともないような数字が並んでいくのが、りっちゃんと私の間にある何かを、どんどん削り取っていくみたいで」

 愛は、グラスの結露でテーブルに小さな円を描いた。消えた。

「宮脇さん。……りっちゃん、最近、私の作ったものを食べてくれないの。買ってきた高いオードブルの方が効率がいいからって。……私の手芸が売れれば売れるほど、りっちゃんの顔が怖くなっていく」

 宮脇は、カウンターから出て愛の対面に座った。少し間を置いてから、静かに問うた。

「愛さんの手芸、今月一番売れたのって、どの作品か知ってる?」

「……え? この前出した、地味な緑色のブローチ。自分でも、なんでかなって思ったんだけど」

「そうよ。みんな、その『地味な緑』が好きなの。派手じゃなくて、でも確かに温かい。……あなたが本当に作りたいものって、何?」

 愛は答えなかった。バッグの中から、一つのブローチをそっと取り出した。深い緑色の糸で編まれた、質素な、けれど力強い作品だった。重雄がくれた昆布の色に似ていた。

「……これ、りっちゃんにプレゼントしようと思って作ったの。でも、渡せなかった。今のりっちゃんには、こんな安っぽい糸、必要ないんじゃないかって」

「渡しなさい、愛さん。それを拒絶するか、抱きしめるか。それは律子さんの問題よ」

 帰り道。西新へ向かう地下鉄の中で、愛はそのブローチを手の中に包んだ。

 夜、十一時。マンションのドアを開けると、玄関には律子の高いヒールが乱雑に脱ぎ捨てられていた。

 キッチンでは、律子が一人、赤ワインをグラスに注ぎ、無表情に壁を見つめていた。テーブルには、誰にも送られなかったメールの下書きが、スマホの画面に光っていた。

 愛は、震える手で、その緑色のブローチをテーブルの上に置いた。

「……りっちゃん。これ、作ったんだ。……受け取ってくれる?」

 律子は、ワイングラスを置いた。ブローチをしばらく見つめた後、静かに手を伸ばした。

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