指先の魔法、あるいは予算外の輝き
四月の終わり。西新のマンションに差し込む西日は、以前よりも少しだけ長く、鋭くなっていた。
リビングのテーブルには、かつて家計簿が開かれていた場所に、色とりどりの刺繍糸と、繊細なレース編みの道具が散乱している。
「……ただいま」
午後十時。律子が重いビジネスバッグを置いてリビングに入ると、そこにはルーペを額に乗せ、一心不乱に針を動かす愛の姿があった。
「あ、りっちゃん。おかえり。……ごめんね、夕飯、まだ並べてなくて」
愛の指先は、細かなビーズを拾い上げ、鮮やかな花模様を布の上に咲かせていた。その動きは、かつてジャガイモを潰し、出汁を引いていた時と同じ、迷いのない職人のそれだった。
「……いいのよ。デパ地下でサラダを買ってきたから。それより愛、それは何?」
「宮脇さんのラルクで試しに売ってみたら、一日で全部なくなっちゃって。ネットに出したら、もっと凄くて。今、予約が十件も入ってるんだよ」
愛が差し出したスマホの画面には、フリマアプリの通知が並んでいた。
『温かみがあって素敵です』『色がとても優しい』
売上金として表示されている数字は、愛が一生懸命切り詰めていた月七万円の数日分に、たった数日で届こうとしていた。
「……そう。凄いじゃない」
律子は、乾いた声で答えた。
「りっちゃん、見て。これ、今日売れたお金で買ってきたの」
愛が誇らしげに掲げたのは、高級な紀州産の梅干しの一瓶だった。
「いつも、高いからって諦めてたでしょ? 私の稼いだお金だから、予算、気にしなくていいんだよ」
律子は、梅干しの瓶を手に取ろうとして、やめた。
「……贅沢ね。そんな高いもの、買わなくても良かったのに」
「どうして? りっちゃん、あんなに梅干し好きだったじゃない。……前は、一緒に『いつか買おうね』って笑ってたのに」
愛の瞳に、戸惑いの色が浮かぶ。
「……疲れているの。先に休むわ」
律子は、愛が丹精込めて作った刺繍のブローチに、一度も触れることなく寝室へ消えた。
暗い寝室で、律子は自分の指先を見つめた。六法全書を捲るための指先に、誰かのために何かを創り出す温度は宿っていない。
キッチンには、誰にも使われていない重雄の昆布が、袋のまま置かれていた。




