祝杯の温度、あるいは聖域のひび割れ
天神・親不孝通りの夜風は、数週間前よりも確実に湿り気を帯びていた。
雑居ビルの三階。「ラルク」の重い扉を押し開けると、そこにはかつてないほどの熱気が渦巻いていた。
「いらっしゃい、主役たち。今夜は特別席よ」
宮脇の声とともに、店内にいた十数人の女性たちが拍手を送る。カウンターの特等席には、勝訴を勝ち取った佐野が、晴れやかな、それでいてどこか静謐な表情で座っていた。
「律子さん。……本当に、ありがとうございました。あの判決文、一生の宝物にします」
佐野が深々と頭を下げる。律子は、新調したシルクのブラウスの襟を無意識に整え、小さく頷いた。
「……いえ。佐野さんが積み上げてきた『生活』が、自ら勝ち取った結果です」
言葉は完璧だった。だが、その声には以前のような共戦の熱ではなく、成功した専門家としての距離感が混じっていた。
今夜、律子が持参したのは、天神の有名パティスリーで購入した、一台一万円の豪奢なホールケーキだった。金箔が散らされ、希少なフルーツが山盛りにされたそのケーキは、ラルクの質素なカウンターの上で、異様なほどの光を放っていた。
「わあ、すごい! 宝石箱みたい!」
メンバーたちが歓声を上げる。
「……ねえ、愛さん。これ、どこの?」
「……天神の、新しいお店。りっちゃんが、お祝いだから一番いいものをって買ってくれたの」
愛は、少しだけ引き攣った笑みを浮かべて答えた。
ケーキにナイフが入る。完璧な味だ。甘すぎず、雑味のない、洗練の極致。
宮脇は一切れを口に運んだ後、グラスを置いたまま、律子の横顔をじっと見た。
「律子さん。……随分と、お忙しそうね」
「おかげさまで。今は、案件が重なっていて」
「そう。……でも、愛さんの手を見てごらんなさい」
宮脇は続けなかった。ただ、グラスを持ち上げて一口飲んだ。「このケーキ、美味しいわね。でも、誰も『おかわり』を頼まないのはなぜかしら」
律子は、イタリア製のブラウスの袖口を、無意識に引っ張っていた。
隣に座る愛の手に目をやる。出汁の香りが染み付いていた愛の指先は、今や何も語らない、ただの清潔な皮膚になっていた。愛は、自分に向けられた視線に気づくと、慌てて手を膝の下に隠した。
「……宮脇さん、それは偏見です。私たちは、より豊かな生活を手に入れたんです」
宮脇は、何も言わなかった。ただ、微かに肩を竦めた。
帰り道。西新へ向かうタクシーの後部座席。節約をやめた証のような選択だった。二人は両端に、深い溝を隔てるように座っていた。
「……りっちゃん」
「……何かしら」
「私、……明日から、バイト始めようと思う。宮脇さんのところで。……自分の食費くらい、自分で稼ぎたいの。ずっと前から、お願いしてたんだ、宮脇さんに」
律子は反論しようとして、口を閉じた。
西新のマンションに辿り着いた時、ドアの前に一通の封筒が落ちていた。
小倉の父・重雄からの、短い手紙だった。
『律子。ぬか床の手入れは、続けとるか。毎日混ぜんと、腐るぞ』
部屋に入り、律子は一人、暗いキッチンに立った。
冷蔵庫の中で、三日前に買った小松菜が、黄色くなり始めていた。




