黄金の残滓、あるいは一万円の虚飾
四月の半ば。西新の商店街を吹き抜ける風は、散り終えた桜の花びらを巻き込みながら、湿り気を帯びた初夏の匂いを運んでいた。
地下鉄の改札を抜ける律子の足取りは、かつてないほど重い。
佐野の裁判に勝訴して以来、彼女の事務所には社会的意義のある案件が次々と舞い込み、律子の帰宅時間は連日、日付が変わる直前になっていた。
バッグの中には、天神のデパ地下で閉店間際に購入した、三千円のオードブルの詰め合わせが入っている。
「……ただいま、愛」
リビングの明かりはついていたが、出汁の香りは漂っていなかった。
テーブルの上には、愛が一人で食べたであろうコンビニのパスタの空き容器が一つ、置かれている。
愛はソファで、スマホの画面をじっと見つめていた。一ヶ月前の糸島の牡蠣の写真だった。りっちゃんを待ちながら、ずっと見ていたんだ、と愛は言った。
「おかえり、りっちゃん。……今日も、遅かったね」
律子は、買ってきたオードブルをテーブルに広げた。フォアグラのパテ、トリュフが香るキッシュ、ローストビーフ。
「……美味しそうだね」
「ええ。忙しくて作れなかったから、せめて良いものをと思って。成功報酬も入ったし、これからは七万円に縛られる必要なんてないのよ」
律子はボルドー産のワインをグラスに注ぎ、愛に差し出した。だが、愛の手は動かない。
「ねえ、りっちゃん。……このオードブル、いくらしたの?」
「……三千円くらいかしら。それがどうかした?」
「三千円あれば、前なら一週間分の鶏肉と野菜が買えたよね。……今の私たち、お金はあるのに、一緒に野菜を切る時間がなくなっちゃった」
律子の手が、ピタリと止まった。
キッシュを一口食べた。美味しかった。それだけだった。
律子は冷蔵庫を開けた。三日前に買った小松菜が、まだ残っていた。
「……効率を考えれば、これが正解なのよ、愛。私はもっと働いて、あなたに不自由な思いをさせたくない」
「不自由って、何? ……私は、りっちゃんが失敗して焦がした厚揚げを、二人で笑いながら食べる方が、ずっと自由だった気がするよ」
愛の声は、震えていた。
律子は財布から一万円札を取り出し、テーブルに置いた。言葉が出なかった。
「……この一万円札、なんだかすごく冷たいよ、りっちゃん」
「……ごめんなさい。私、何かを間違えているのかしら」
「分からない」
外では、春の終わりの雨が降り始めていた。
二人の食卓は、かつてないほど豪華になり、そして、かつてないほど静まり返っていた。




