春雷の主文、あるいは七万円の凱旋
四月一日。福岡地方裁判所、第302号法廷。
窓の外では、満開を過ぎた桜が春の嵐に舞い、法廷の重厚な扉を叩く風の音が遠く響いていた。
大野律子は、愛の選んだ淡いグレーのスーツに身を包み、証言台の前に立っていた。傍聴席の最前列には、腕を組んで彫像のように動かない父・重雄。隣でハンカチを握りしめ俯く愛の母・よし子。そして、律子の手を震えながら握りしめる佐野。
「……主文」
裁判長の高く、乾いた声が法廷の静寂を切り裂いた。
律子は、一瞬だけ目を閉じた。脳裏を過ったのは、西新のマンションで愛と囲んだ、湯気の立つ食卓の風景だった。
「被告らは、原告に対し、本件建物の明け渡し請求を棄却する。また、原告と故人の間に婚姻に準ずる内縁関係があったことを認め、被告らに対し、慰謝料として金二百万円を支払うよう命ずる」
一瞬の静寂の後、佐野が短い悲鳴のような声を上げて泣き崩れた。
律子は、ゆっくりと息を吐き出した。十七年分の、静かな疲労が、全身から抜けていくような気がした。視線は、判決文を読み上げる裁判長ではなく、傍聴席の父・重雄へと向けられていた。
重雄は、判決を聞いても表情一つ変えなかった。だが、その大きな手が、膝の上で微かに震えているのを律子は見逃さなかった。
法廷の外。雨上がりの柔らかな光が差し込む廊下で、重雄が律子の前に立った。
「……律子」
「お父さん」
重雄は、愛の顔を一度だけ盗み見ると、懐から一通の封筒を取り出し、無作法に律子の手に押し付けた。
「……これは、小倉のぬか床の株分けの仕方を書いたメモだ。それと、小倉の最高級の昆布だ。……出汁にだけは、拘れっち言うたやろ」
それだけ言って、重雄は背を向けた。振り返らなかった。
よし子も、涙を拭いながら愛の手を取った。
「……愛。今度、久留米に帰ってきたら、その……七万円のやりくり、お母さんにも教えてね」
二組の親たちが去った後。
律子と愛は、西新のマンションへと向かう地下鉄の中で、互いの肩を寄せ合った。鞄の中には、重雄の昆布と、よし子が持たせてくれた久留米の野菜が詰まっている。
「……勝ったね、りっちゃん」
「ええ。……でも、明日からはまた、普通の毎日が始まるわ」
帰宅した二人は、汚された跡の消えたドアを開け、キッチンに立った。
愛がキャベツを千切りにする。律子が胡椒を挽く。
「……好きなだけ入れていいって、言ったわよね」
「うん。覚えてる」
カシャッ。
愛が、その日常をスマホのカメラに収めた。
月七万円の食卓に、今夜は重雄の昆布の出汁が加わる。春のキャベツに、胡椒が香る。西新の夜空には、雨上がりの星が瞬いていた。




