証言台のスープ、あるいは結審の味
三月の終わり。福岡地方裁判所の第302号法廷。
窓の外では、舞鶴公園の桜が、冷たい春雨に打たれながらも開花の時をじっと待っていた。
大野律子は、黒のスーツのボタンを一つ、静かに留めた。
隣には、亡きパートナーの遺影を抱いた佐野が、震える肩を律子に預けるようにして座っている。対面に座る親族側の老弁護士は、相変わらず「法的には他人である」という一点張りの準備書面を、汚物でも見るような手つきで捲っていた。
「……最終陳述に入ります。原告代理人、大野弁護士」
裁判長の促しに、律子はゆっくりと立ち上がった。
彼女の手には、第16話で愛と共に整理した、一冊の分厚いフォトアルバムがあった。
「裁判長。本件において被告側は、原告と故人の関係を『一時的な同居』、あるいは『不潔な共同生活』と断じています。ですが、ここにある記録を見ていただきたい。これは、二人が共に過ごした三千六百五十日の、その『食卓』の記録です」
律子は、プロジェクターに一枚の写真を映し出した。
それは、佐野がパートナーのために作った、少し形の崩れたオムライスの写真だった。
「原告の佐野さんは、月々の限られた予算の中で、パートナーの健康を第一に考え、献立を立て、食材を選び、毎日欠かさず火を灯してきました。……相手が風邪を引けば、生姜を効かせたお粥を炊き、昇進が決まれば、少し奮発して糸島の牡蠣を買う。……これは、契約書によって義務付けられた作業ではありません。互いの『生』を支え合おうとする、強固な意思の積み重ねです」
法廷内が、しんと静まり返る。
律子の声は、かつてのような冷徹な論理の刃ではなく、西新のマンションで愛と分け合った、あの温かなスープのような熱を帯びていた。
「被告側は『婚姻届がない』ことを理由に、原告をこの家から追い出そうとしています。ですが、裁判長。家族とは、役所に提出した一枚の紙切れによって完成するものでしょうか? それとも、今日何を食べるかを相談し、共に箸を並べ、同じ味を美味しいと笑い合ってきた、この『時間の質量』によって定義されるべきものでしょうか?」
律子は一息つき、老弁護士を真っ直ぐに見据えた。
「ドアに『変態』と書き殴った犯人は、現在、警察の捜査により被告側の関係者である疑いが濃厚となっています。……彼らが汚そうとしたのは、単なるドアではありません。二人が積み上げてきた、この尊厳ある『生活』そのものです。法がこれを保護せずして、一体何を、誰を守るというのですか!」
佐野が、こらえきれずに嗚咽を漏らした。
裁判長は、眼鏡の奥の鋭い眼差しでアルバムの一枚一枚を、慈しむように見つめていた。
一時間後。
結審。判決は一ヶ月後となったが、法廷を出る律子の足取りは、かつてないほど軽やかだった。
廊下で待ち構えていた愛が、不安そうな顔で律子に駆け寄る。
「……りっちゃん、どうだった?」
「……出し切ったわ。私たちの七万円の、本当の価値を」
律子は、愛の温かな手を、公衆の面前でしっかりと握り返した。
その日の夜。二人は、判決を待つための「お祝い」として、西新の商店街で一番良い真鯛を買ってきた。
「今夜は鯛の塩焼きと、それから、余ったアラでお吸い物を作りましょう。……お父さんが言っていた『まともな出汁』でね」
「あはは。おじさん、あんなに怖かったのに、出汁にだけは負けちゃったもんね」
愛が、台所で鯛の鱗を丁寧に取り除いていく。
西新のマンションのドアには、もう傷跡はない。
裁判という戦いが終わったあとの食卓には、ただ、静かで力強い「生活」の音が満ちていた。
月七万円。
それは、二人がこの街で「家族」として生き抜くための、最も神聖な戦費だったのだ。




