『二つの故郷と、冷めきった茶菓子』
西新のマンションの廊下には、まだかすかに強烈な洗剤の匂いが停滞していた。剥がされた「変態」の文字の跡が、淡いベージュのドアに、治りかけの傷跡のように無残に刻まれている。
その傷跡の前に、福岡の街にはおよそ場違いな、二組の男女が立っていた。
「……お父さん。お母さん」
律子の声が、凍てついた廊下に冷たく響いた。
小倉から来た父・重雄は、仁王立ちのまま、ドアの傷を「一族の汚点」を見るような眼差しで睨みつけている。一方、愛の母・よし子は、久留米から抱えてきた大きな風呂敷包みを胸に、今にも泣き出しそうな顔で愛を凝視していた。
「……中に入りなさい。ここで騒がれて、近所の好奇の目に晒されるのは本望じゃないでしょう」
律子は、感情を排した事務的な手つきで鍵を開け、彼らを招き入れた。
リビングのテーブルには、重雄が持ってきた湖月堂の「栗饅頭」と、よし子が広げた久留米名物の「筑前煮」が並んだ。どちらも、それぞれの街で「正解」とされている、重苦しいほどに正しい手土産だ。
だが、誰も手をつけない。部屋の中は、三月の夜気よりも鋭く、静かに凍てついていた。
「律子。警察から連絡があった時は、耳を疑ったぞ」
重雄が、地を這うような低音で切り出した。
「『変態』っち書かれたんか。弁護士という立場でありながら、そんな醜聞に晒されて、まともな仕事が務まると思うんか。恥を知れ。今すぐ事務所を畳んで小倉に帰れ。後の始末は、わしがどうにかしてやる」
「お父さん、それは私のキャリアを――」
「愛もよ!」
よし子が律子の言葉を遮り、悲鳴のような声を上げた。
「あんた、こんな物騒な場所に、女の人と二人で……。お母さん、夜も眠れんかった。久留米に帰って、あのお見合い相手の方にもう一度土下座して謝れば、きっとまだやり直せるけん……」
二人の「正義」が、部屋の空気を物理的に押し潰していく。
律子は、テーブルの端に置かれた「七万円の家計簿」をそっと手で隠した。この人たちには、この数字の積み重ねが、どれほどの覚悟で守られてきた「独立宣言」であるか、一生理解できないだろう。
その時だった。
キッチンで石のように沈黙を守っていた愛が、カチャリと音を立ててガスコンロに火をつけた。
「お母さん。おじさん。……遠くから来て、お腹空いちょるでしょ。今、温かいお味噌汁ば作るけん。ちょっと待っとって」
「愛! あんた、こんな時に何を暢気なこと言いよるとね!」
よし子の怒声が飛ぶが、愛の手は止まらなかった。
トントン、と小気味よい包丁の音が響き、出汁の香りが少しずつ、殺伐としたリビングへと漂い始める。
愛は、第10話で糸島から連れてきた「牡蠣のオイル漬け」を小鉢に盛り、律子が昨夜、涙を堪えながら仕込んだ「小松菜の常備菜」を添えた。
「……食べて。これが、私たちの毎日。あんな真っ赤な落書きに負けんくらい、私たちはここで、ちゃんと生きて、ちゃんと食べてる」
愛が差し出したのは、何の変哲もない、けれど一分の隙もなく丁寧に作られた「朝ごはんのような夕食」だった。
重雄は鼻を鳴らし、忌々しげに顔を背けようとしたが、鼻腔をくすぐる上質な出汁の香りに、一瞬だけ喉を鳴らしたのを、律子は見逃さなかった。
「……私は、帰りません」
律子が、静かに、けれど法廷での最終弁論よりも明確に告げた。
「卑劣な嫌がらせに屈して逃げ出すのは、弁護士としても、一人の人間としても、私のプライドが許さない。……それに、お父さん。私はもう、小倉の大野律子じゃない。ここで愛と、新しい家族の味を作っている、西新の住人なんです」
「……馬鹿者が」
重雄は吐き捨てるように言うと、突き出された味噌汁を、抗うように一口啜った。
それは、小倉の家で代々守られてきた塩辛い味噌の味とは違う。愛が律子のために、少しだけ甘めのみりんを足し、丁寧に灰汁をすくった、優しくて芯の強い「西新の味」だった。
重雄の眉間の皺が、ほんのわずかに、雪解けのように緩む。
「……出汁だけは、まともなもんを使いよるな」
故郷からの激しい波は、まだ引いてはいない。
けれど、愛が作った一杯の味噌汁が、猛り狂う両親の言葉を、静かに、確実に飲み込んでいった。
七万円の予算の中で、最も贅沢に使われた「もてなし」が、絶望的な断絶の淵に、小さな、けれど確かな橋を架けようとしていた。




