『汚されたドアと、深夜のポテトサラダ』
それは、佐野さんの裁判において、親族側の不当性を突く痛烈な準備書面を提出した翌日のことだった。
午後八時。西新のマンション、その「聖域」の扉の前で、律子は肺の中の空気をすべて奪われたように凍りついた。
淡いベージュの清潔なドアに、赤いスプレーで無造作に、そして醜悪に書き殴られた二文字。
『変態』
足元には、中身をぶちまけられた生ゴミが散乱していた。腐った果実の皮、誰かが啜り終えたカップ麺の残骸、それらが鼻を突く悪臭を放ち、廊下の空気を汚染している。
「……っ」
律子はバッグを落としそうになりながら、鍵を開ける手が激しく震えた。弁護士として、暴力団関係者の訴訟も、ドロドロの離婚劇も、数々の修羅場を潜り抜けてきたはずだった。だが、自分の「私生活」そのものを、誰が歩いているかも分からない廊下で曝し者にされ、汚泥を投げつけられる衝撃は、魂の深部を直接ナイフで削られるような痛みだった。
「りっちゃん!? どうしたの、そんな顔して……」
中から出てきた愛が、律子の背後にある惨状を目にした瞬間、短い悲鳴を上げて口を覆った。
一時間後。
警察の現場検証を終え、管理会社への連絡を済ませた二人は、リビングで力なく座り込んでいた。ドアの汚れは業者によって落とされたが、一度網膜に焼き付いた「悪意」の残像は、部屋の隅々にまで黒いインクのように染み込んでいるように感じられた。
「……佐野さんの親族側ね。あんな卑劣な嫌がらせをして、私の『心』を折るつもりだわ」
律子の声は枯れた枝のように細く、膝の上で組んだ指先はまだ痙攣を繰り返している。
「もう、ここに住めないかもしれない。愛、あなたにまでこんな……」
「りっちゃん」
愛の声が、いつもより一段低く響いた。愛は黙って立ち上がると、冷蔵庫からジャガイモと胡瓜を取り出した。
「愛? こんな時間に何を……」
「りっちゃん。あいつらは、私たちの生活を『汚物』だと思わせたいんだよ。だったら、私たちは、私たちの『美味しい』を絶対に手放しちゃいけない」
愛は、怒ったような顔でジャガイモを茹で始めた。
湯気が立ち上がり、土の温かな香りが、殺伐としたリビングに広がっていく。愛は茹で上がったジャガイモをボウルに移すと、木べらではなく、マッシャーで力強く、憎しみを叩きつけるように潰していった。
「見て、りっちゃん。ジャガイモを潰すとね、嫌なこと全部、この中に入って消えていくんだよ」
愛が差し出したのは、出来立ての、まだ湯気を上げるポテトサラダだった。
隠し味に、福岡県民が愛してやまない「甘口の醤油」を一垂らし。そこにたっぷりのマヨネーズ。
律子は、震える手でスプーンを取り、一口、その塊を口に運んだ。
「……温かい」
「でしょ? どんなにドアを汚されても、言葉を投げつけられても、このポテトサラダの味だけは、あいつらには一ミリも汚せないんだから」
律子は、ポテトサラダの素朴な甘みを、奥歯で噛み締めた。
恐怖で岩のように強張っていた胃の奥が、ゆっくりと、熱を帯びて解けていく。
月七万円の食費。それは、贅沢のためでも、見栄のためでもない。
こうして悪意に晒され、自分たちが自分たちであることを否定されそうな夜、最後の最後で「人間」を繋ぎ止めるための、命の防衛費だったのだ。
深夜。律子のスマホが、静かに震えた。
宮脇からのメッセージだった。
『島田から聞いたよ。明日から「ラルク」のメンバーで交代で、マンションの周りを見守るから。……大野さんは、法廷での戦いに集中して。あなたは、私たちの希望なんだから』
律子は、涙が溢れるのを堪えきれなかった。
犯人は、二人を孤立させ、日陰に追い込もうとした。けれど、その悪意が撒き散らされた場所に、かえって見えない糸が、より太く、より強く結びついていくのを律子は感じていた。
「……負けないわよ、愛。私、あいつらを法廷で引きずり出して、完膚なきまでに叩き潰してみせる」
「うん。明日の朝は、もっと美味しいもの食べよう。勝負飯だよ、りっちゃん!」
汚されたドアの向こう側。
深夜のキッチンで、二人の絆は、かつてないほど鮮やかに、そして逞しく輝き始めていた。




