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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン2

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13/19

『三月のフラッシュと、誓いの炊き込みご飯』

三月。天神の街は、卒業式を終えたばかりの学生たちの、どこか浮ついた晴れやかな声に満ちていた。

 だが、大野律子の心象風景は、どんよりと低い雲に覆われた早春の博多湾のようだった。

「……向こうの弁護士は、徹底抗戦の構えね」

 事務所のデスクで、律子は重い溜息を吐いた。佐野さんのパートナーの親族側が盾にしているのは、法律の解釈ではない。

「不潔な関係に権利など認めない」「我が一族の恥部を拭い去る」という、論理では届かない場所にある、巨大な差別意識と嫌悪だった。

 論理を尽くしても、相手が「人」としてこちらを見ていない。その断絶が、律子を一番激しく消耗させた。

 午後八時。西新のマンション、その「聖域」の扉を開ける。

 キッチンから聞こえてきたのは、包丁の音ではなく、カシャッ、カシャッという乾いた電子音だった。

「……愛? 何をしてるの」

「あ、りっちゃん。おかえり! 見て、今日の自信作」

 愛は、炊きたての「たけのこの炊き込みご飯」と、菜の花のお浸しが並んだ食卓を、スマホのカメラで熱心に、角度を変えて撮影していた。

「佐野さんの話を聞いてから、私なりに考えたの。私たちの毎日が、いつか誰かに『なかったこと』にされないように。こうして全部、デジタルの中に刻みつけておくんだ。これが私たちの、一番の武器になると思って」

 愛が差し出したスマホの画面。そこには、ここ数週間の献立が、まるで一編の詩のように並んでいた。

 糸島の牡蠣で作ったあの日のパスタ、深夜に震えながら食べた豚汁、少し形が崩れた出し巻き卵……。

 そこには、単なる料理の写真以上のものが写り込んでいた。

 並んだ二組の箸、使い込まれた鍋敷き。そして画面の端、無意識に写り込んだ、律子の疲れ切った、けれど愛おしい手。

 それらはすべて、二人がここで生きて、笑って、悩んできたという、揺るぎない「生活の証言」だった。

「……ありがとう、愛。これを見ていたら、なんだか、心の渇きが癒えていくみたい」

 律子はスーツのジャケットを脱ぎ、椅子に沈み込んだ。

 旬の筍。泥の中で何年も耐え、時期が来ればアスファルトさえ突き破って芽吹く。福岡の春を告げるその香りは、今の律子に必要な「静かなる闘志」を象徴しているようだった。

「さあ、食べよう。今日は奮発して、鯛のお刺身も買ってきたよ。七万円の予算、今月はちょっと贅沢に『戦いの決起集会』に使おう!」

 愛が笑顔で、ほかほかの茶碗を差し出す。

 律子は、一口ごとに筍のシャキシャキとした食感を噛み締めた。土の香りと出汁の旨みが、喉から全身へと染み渡る。

 

 法律は、文字で書かれた冷たいルールだ。けれど、そのルールに命を吹き込み、歪んだ正義を正すのは、こうした温かなご飯を誰かと分け合う、名もなき「日常」の力なのだ。

「……佐野さんの裁判、絶対に負けないわ。彼女の食卓も、私たちの食卓も、誰にも汚させない」

 律子の瞳に、かつての、いや、かつて以上の鋭い光が戻っていた。

 三月の夜風はまだ、西新の街を冷たく撫でている。

 

 律子は、愛のスマホの中に増えていく「証拠写真」を見つめた。

 それは、二人がこの街で刻む、新しい家族の歴史。

 そして、いつか来る「最後の日」まで、自分たちが自分たちであることを証明し続けるための、琥珀色の記憶。

 だが、律子は知っている。

 この温かな食卓のすぐ外、暗い廊下の向こう側に、あの「ぬか床」の匂いを纏った巨大な影が、今も息を潜めて立っていることを。

「美味しいね、愛」

「うん、最高だね、りっちゃん」

 二人は微笑み合う。

 嵐の前の、あまりにも美しく、そして覚悟に満ちた春の夜だった。

 

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