『天神の天秤と、秘密の面会室』
天神の中心部。ガラス張りのオフィスビルに居を構える「大野・木村法律事務所」。
そこは、律子にとっての聖域であり、感情を排した論理と証拠だけが通貨となる冷徹な戦場だった。
「大野先生、予約の佐野様がお見えです」
事務員の呼びかけに、律子は眼鏡をかけ直し、背筋を伸ばした。応接室の扉を開けると、そこには先日「ラルク」で隣り合い、穏やかに笑っていたはずの佐野が、別人のようにやつれた姿で座っていた。
「……大野さん。いえ、大野先生。今日は『仲間』としてではなく、弁護士さんとしてお伺いしました」
佐野の声は、冬の枯れ葉のように震えていた。
彼女が差し出したのは、数枚の通知書。内容は無慈悲だった。長年、事実上の連れ添いだったパートナーが急逝し、その直後、疎遠だった親族から「不法占拠」を理由とした立ち退きを要求されているというものだ。
「……彼女が亡くなってまだ一週間です。それなのに、あの人たちは家に上がり込んで、あの子の遺品をゴミみたいにまとめて……。私が隣にいるのが当たり前だった日常を、全部『なかったこと』にしようとしているんです」
通知書を見つめる律子の指先が、微かに強張った。
法的には、佐野は「赤の他人」に過ぎない。相続権もなければ、居住権の根拠も乏しい。親族の主張は、この国の法律に照らせば、残酷なまでに「正当」だった。
「先生。私たちは、誰にも迷惑をかけずに、ただ静かに生きてきたつもりです。それなのに、法は私たちを『いなかったこと』にするんですか?」
律子の脳裏に、小倉の父・重雄の顔が過った。あの「世間」を自称する絶対的な権力。
もし今、自分が倒れたら。もし愛が、あの一室で一人取り残されたら。
月七万円の予算で積み上げてきた、あの瑞々しい糸島の牡蠣も、深夜に分け合ったかしわうどんも、この紙切れ一枚で「幻」として処理されてしまう。
律子はペンを置き、佐野の瞳を真っ直ぐに射抜いた。その瞳には、弁護士としての冷静さと、一人の当事者としての執念が同居していた。
「佐野さん。法は無慈悲ですが、血も涙もないわけではありません。二人の間に『内縁関係』に準ずる実態、つまり、一つの家族として機能していた歴史を証明しましょう。光熱費の折半、共有の口座、そして……」
律子は一度言葉を切り、愛の顔を思い浮かべた。
「あなたが彼女のために作り、共に食べてきた、毎日の食事の記録。それはありますか?」
「ええ。……写真なら、たくさん。彼女が私の作ったオムライスを『世界一だ』って笑っている写真も」
「それをすべて集めてください。その一枚一枚が、あなたがたがそこに存在したという、何物にも代えがたい『盾』になります。……私が、それを法廷で武器に変えてみせます」
律子の声は、祈りにも似た熱を帯びていた。
その日の深夜。西新のマンションに戻った律子を待っていたのは、静まり返ったリビングと、カウンターに置かれた「おにぎり」と「豚汁」だった。
律子はコートも脱がず、椅子に沈み込むようにして冷めたおにぎりを一口頬張った。
愛が握った、少し形がいびつな米の塊。そこには、どんな高級レストランのフルコースにもない、確かな「体温」が宿っていた。
「……おかえり、りっちゃん。佐野さん、大変だったみたいだね」
寝室から出てきた愛が、律子の背中にそっと手を添える。律子はその温もりに触れた瞬間、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「愛。私、怖くなったの。私たちがこうして食べている時間が、誰かに『無価値だ』と断じられることが、何より耐えられない。……これからは、私たちの食卓を、全部写真に残しましょう。いつ、誰に何を言われても、私たちがここで『家族』として生きていた証拠として」
律子は愛を、壊れ物を扱うように強く抱きしめた。
弁護士として戦うことは、条文を守ることではない。隣にいる人の、美味しいと笑う権利を、その歴史を、一秒たりとも奪わせないことなのだ。
――だが、その決意を嘲笑うように、静寂は破られた。
カチャリ、と玄関のドアノブが動く音がした。
律子と愛が顔を見合わせる。この時間に、誰かが訪ねてくるはずがない。
続いて、ドアの外から低く、地を這うような声が響いた。
「律子。……開けろ。ぬか床を、持ってきてやったぞ」
律子の全身から血の気が引いた。
父、重雄。
小倉の「家」そのものであるあの男が、ついにこの聖域の境界線を踏み越えてきた。
愛の手が、律子の腕の中で激しく震え始める。
月七万円の食卓。幸せな証拠写真。
そんなものが、今まさに扉を叩いている「生身の支配」の前に、どれほどの無力さを露呈するのか。
律子は愛を背後に隠し、震える足で玄関へと向かった。




