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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン2

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11/19

『雑居ビルの止まり木と、琥珀色のオイル』

天神・親不孝通りの喧騒。かつて受験生たちが溢れたというその通りは、今や呼び込みの若者と夜の街へ消える群衆の熱気に支配されていた。

 その路地裏、昭和の湿り気を残した雑居ビルの三階にあるカフェバー「ラルク」。そこが、律子にとっての「未知の領土」だった。

「りっちゃん、そんなに検察官みたいな顔しないで。ただの飲み会だよ」

 ガタガタと頼りなく揺れるエレベーターの中で、愛が律子のスーツの袖を引いた。律子は、普段の裁判に向かう時よりも深く眉間に皺を寄せ、手にした保冷バッグをまるで機密文書のように固く握りしめている。

「……不用心だわ、愛。私が弁護士だと知られれば、どんなトラブルの相談を持ちかけられるか。それに、こういう集まりには必ず……」

 律子の脳内では、想定しうる最悪のリスクシナリオが高速で演算されていた。だが、扉が開いた瞬間に広がっていたのは、彼女の防御本能を削ぐほどに穏やかで、ありふれた「夜の欠片」だった。

「あ、愛さん! 律子さんも! 本当に来てくれたんだ!」

 ジーンズにTシャツという、街に溶け込みすぎるほどラフな姿の宮脇が、満面の笑みで駆け寄ってくる。

 店内には、年齢も服装もバラバラな女性たちが十数人。そこには律子が危惧していた「政治的な連帯」も「悲劇の共有」もなかった。ある者は熱心に趣味のカメラの話をし、ある者は静かにグラスを傾け、ただそこに「居る」ことを肯定し合っている。

「……これ、糸島の牡蠣で作ったオイル漬けです。昨夜、二人で漬けました」

 愛が差し出した保冷バッグを、宮脇が両手で恭しく受け取る。

「うわ、最高! みんな、愛さんたちが糸島から連れてきた『海の宝物』だよ!」

 

 琥珀色のオイルの中で、ニンニクと鷹の爪、そして宮脇から教わったハーブと共に眠る大粒の牡蠣。それがクラッカーに乗せられ、カウンターに並んだ。

 最初は壁際に立ち、周囲を観察していた律子も、自分の選んだ食材を「美味しい!」と頬張る彼女たちの無防備な笑顔を見て、少しずつ、胸の奥の結び目が解けていくのを感じた。

「律子さん、お仕事大変なんでしょ? 宮脇から聞いてるよ」

 隣に座った、眼鏡をかけた落ち着いた女性が穏やかに話しかけてきた。

「……ええ。まあ、それなりに」

「私も地方公務員なんだけどさ。職場では『仕事と独身を謳歌するベテラン』を鉄面皮で演じ切ってるよ。でも、月に一度ここに来ると、その役を降りていい気がして。明日からまた、偽物の自分を頑張れるんだよね」

 律子は、自分のグラスに揺れる安価なワインを見つめた。

 弁護士という鎧を脱いだ自分が、この福岡の街のどこに属しているのか。これまで、その答えは「西新のマンション」という、月七万円の予算で守られた狭い一室にしかないと思っていた。けれど、目の前の彼女たちもまた、街のいたるところで武装し、戦い、そして傷だらけのまま、ここで束の間の「味」を分け合っている。

「……宮脇さん。この場所は、あなたにとって何なんですか?」

 律子が尋ねると、宮脇は愛と笑い合っていた顔をこちらに向けた。

「ルールは一つだけ。『ここでの話は、ここに置いていくこと』。私たちは、法律や血縁では繋がれない。でも、こうして『同じ季節の味を美味しいと思う記憶』でなら繋がれる。それって、どんな契約書よりも強固だと思わない?」

 律子は、愛の方を見た。

 愛は、新しい友人とスマートフォンの連絡先を交換しながら、今まで見たこともないような、心からの、瑞々しい表情をしていた。

 月七万円の予算。それは二人だけのシェルターを築くための「拒絶の費用」だと思っていた。けれど、今日持ってきた牡蠣のオイル漬けは、外の世界と自分たちを繋ぐ、温かな「通行証パスポート」になったのだ。

 ――だが、その充足感に、冷や水が浴びせられる。

 律子のバッグの中で、スマートフォンのバイブレーションが鳴った。

 一度。二度。

 先日の「無記名メール」と同じ、あの不吉なリズム。

 律子は席を立ち、化粧室の個室へ逃げ込んだ。震える指で画面を開く。

 そこには、一枚の画像が添付されていた。

 それは、今まさに楽しそうに笑っている、この「ラルク」の入った雑居ビルを見上げる、一人の男の後ろ姿だった。見覚えのある、作務衣のような厚手のコート。

 そして、短い一言。

『楽しそうだな、律子。お前の「世間」は、随分と狭い場所にあるらしい』

 律子は吐き気を催し、壁に手をついた。

 父、重雄。

 小倉の「ぬか床」の主が、この天神の暗がりに潜んでいる。

 自分が信じ始めた「自由」が、実は父の手のひらの上で踊らされていたに過ぎないという事実に、律子の全身が総毛立った。

 化粧室を出ると、愛が心配そうに待っていた。

「りっちゃん? 顔色が悪いよ」

「……何でもないわ。少し、酔ったみたい」

 律子は愛の手を強く握った。その手は、オイル漬けのニンニクの匂いが微かに残っていた。

 

 帰り道、天神のネオンは相変わらず優しく街を照らしていたが、律子の目には、それがすべて自分たちを監視する「目」のように見えた。

「……どうだった、りっちゃん。怖かった?」

 愛が覗き込むように尋ねる。

「……いいえ。意外と、悪くなかったわ。来月も、何か『お裾分け』を考えておきましょうか」

 

 律子は、嘘をついた。

 愛の晴れやかな笑顔を守るために。

 そして、自分たちの「七万円の聖域」を侵食し始めた小倉の闇を、独りで食い止めるために。

 二人の歩むアスファルトの先に、長く、どす黒い影が伸びていた。

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