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五万七千円の安息香(あんそくこう)  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン2

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10/19

『車窓の紺碧(こんぺき)と、軍手のぬくもり』

二月の末。福岡の空は、分厚い冬の雲を脱ぎ捨てようともがくように、薄い光をはらみ始めていた。

 地下鉄空港線が姪浜駅を過ぎ、地上へ這い出てJR筑肥線へと姿を変える。車窓に広がる今宿の海を見た瞬間、律子は自分がどれほど「乾いていたか」を思い知らされた。

「見て、りっちゃん! 海!」

 愛の無邪気な声に、律子は微かに微笑む。だが、その微笑みの裏側には、仕事用スマホをバッグの奥底、財布よりも深い場所に隠しているという罪悪感が、おりのように溜まっていた。

 今日は、二人にとっての『冬の慰労会』。律子は昨日、銀行のATMで、二人の聖域である「七万円の予算」から、新札の一万円札を数枚引き出した。指先に残る紙幣の感触は、愛への謝罪であり、自分への保釈金のようでもあった。

 加布里かふり駅。潮風はまだ、刃物のような鋭さを残していた。

 海岸線に並ぶビニールハウス。威勢の良い声と、白い煙。

 二人はお揃いの黄色いジャンパーを借り、爆ぜる炭火の前に座った。

「いらっしゃい! 今日の牡蠣は一番よ!」

 バケツいっぱいの糸島産カキ。

 律子は軍手をはめ、トングを握る。その横顔は、大規模な企業買収の契約書を精査する時よりも険しい。

「りっちゃん、そんなに身構えなくても……。あ、弾けた!」

 パチン、と殻が爆ぜる音に、律子が「ひっ」と情けない声を上げて身を引く。法廷で相手弁護士を論破する冷徹な女が、一粒の牡蠣に翻弄されている。

 その姿を見て、愛が腹を抱えて笑った。

「……笑わないで。真剣なのよ。これは、戦いなんだから」

「何と戦ってるのよ。ほら、もう焼けてるよ」

 律子が苦労して剥いた牡蠣は、殻いっぱいにぷっくりと太り、神々しいほどの乳白色に輝いていた。

 ポン酢を垂らし、愛が一口で頬張る。

「……んんっ! 濃厚……。海のミルクっていうか、海そのものを食べてるみたい」

 律子も一粒、口に運ぶ。

 熱々の汁が溢れ、濃厚な旨みが舌の上で爆発した。それは、デパ地下の、誰が作ったかも分からない三千円のテリーヌとは対極にある、剥き出しの生命力だった。

「……美味しい。来て良かったわね、愛」

 律子は、自分の中の「弁護士・大野律子」が、磯の香りに溶けていくのを感じていた。

 だが、その安らぎを切り裂くように、バッグの奥でスマホが震えた。

 バイブレーションの振動が、律子の太ももを伝って脳を刺す。

 愛が、一瞬だけ、律子のバッグに目をやった。

 律子は平然を装い、追加の牡蠣を網に乗せる。

「……無視して。今は、私たちの時間だから」

「……うん。そうだね」

 愛の返事は短かった。その短い沈黙に、律子は気づかないふりをした。

 食事の帰り際。律子の視線が、店の隅にある「持ち帰り用」の保冷バッグに止まった。

「……愛。これ、買って帰りましょう。一番大きいのを」

「えっ、あんなに食べたのに?」

「いいえ。明日、この牡蠣で『オイル漬け』を作るの。そうすれば、平日の夜、私たちがバラバラに食事をする時も、この海の味を共有できるでしょう?」

 それは、律子の必死な「繋ぎ止め」だった。

 七万円の予算。糸島の海。公正証書。

 自分たちは、これだけ強固な盾を持っている。だから、あのスマホから届く「過去の音」に、自分たちの生活が侵食されるはずがない――。

 夕暮れの筑肥線。

 重たい牡蠣の袋を二人で交互に持ちながら、オレンジ色に染まる海を眺める。

「明日はパスタにする? それとも、そのままおつまみにする?」

「……宮脇さんから教わったハーブも入れようね」

 愛の言葉に、律子は頷く。

 だが、律子の頭の中では、バッグの中のスマホが、音もなく次の獲物を狙っているような気がしてならなかった。

 西新のマンションへ戻り、愛が風呂に入っている隙に、律子はベランダへ出た。

 凍えるような夜気の中で、スマホを取り出す。

 未読通知。発信元は、やはりあの「名前のない番号」。

 そして、一通の短いメール。

『律子。逃げ切れたと思っているのか。小倉の家は、お前を許していないぞ』

 律子の指先が、寒さとは別の理由で激しく震えた。

 背後で、風呂上がりの愛が「りっちゃーん、牡蠣、冷蔵庫入れたよー」と明るい声を出す。

「……ええ。今、行くわ」

 

 律子は、スマホをポケットの奥に隠し、温かなリビングへと戻った。

 冷蔵庫には、糸島の海。

 けれど、その扉を閉める律子の手は、自分たちが築き上げた「七万円の幸福」が、あまりにも薄い氷の上に立っていることを、痛いほど理解していた。

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