天神の弁護士、家では月五万円の飯炊き係
天神・明治通りの交差点。オフィスビルを切り裂くように抜ける風は、三月というのに剃刀のような冷たさを孕んでいた。
大野律子は、ダークネイビーのスーツのボタンを喉元まで留め、戦闘態勢を崩さぬまま地下鉄の駅へ歩を進める。午後六時。大名の喧騒へ消えていく同僚たちの誘いを、彼女は「職務上の義務」を果たすような正確さで断り続けてきた。
律子にとって、帰宅は「帰還」ではない。もう一つの「戦場」への移動だ。
頭の中では、エクセルシートのような演算が高速で走る。今朝のチラシ、スーパー「サニー」の特売、冷蔵庫に残った三日前の小松菜。
(連子鯛、一尾二九八円。三枚におろせば、今夜の塩焼きと明朝の出汁茶漬けまで繋げる。あらは潮汁に。一円あたりの栄養価は、これが最適解だ……)
弁護士として法廷に立つ時、律子は常に「定義」の不在に打ちのめされる。法は彼女と愛の関係を、血縁とも婚姻とも認めない。もし明日、どちらかが倒れた時、病室のカーテンを開ける権利すら、自分たちにはないかもしれない。
だから、数字だ。
一〇円、二〇円を削り、銀行残高という「城壁」を築くことだけが、不確かな未来に対する唯一の物理的な抗戦だった。
「ただいま」
マンションの重い扉を開けた瞬間、冷えた肺に、場違いなほど甘い香りが流れ込んできた。
「りっちゃーん! おかえり! 見て、これ、すごいでしょ!」
キッチンから飛び出してきた小山内愛の手には、プラスチックのパックの中でひしめき合う、真っ赤な「あまおう」があった。
律子の視線が、鋭くその果実を射抜く。
「愛。今週の嗜好品枠は、月曜のチーズケーキで底をついたはずよ。……いくらしたの」
「三〇〇円! 商店街の入り口で、おじさんが今日だけ特別だって。ねえ、これ食べて、明日も頑張ろうよ」
「三〇〇円あれば、卵が二パック買えた。あるいは、三日分の納豆。愛、あなたの『明日』は、たった一晩の甘みで担保されるほど安いの?」
愛の顔から、灯が消える。
「……りっちゃんにとって、私の『元気』は、納豆六パック分以下の価値しかないんだね」
愛が苺を置く。その音が、硬質な沈黙となってリビングに響いた。
律子は何も言わず、台所に立った。買ってきた鯛を取り出す。
鱗をこそげ落とし、包丁を入れ、内臓を取り除く。冷たい水で血を洗い流しながら、律子は自分の指先が、その死んだ魚と同じ温度になっていることに気づく。
論理的には、自分が正しい。
だが、この冷たい水で洗っているのは、自分たちの「今」ではないのか。
将来という、来るかどうかもわからない暗闇のために、今、隣で笑うはずの人間を凍えさせているのではないか。
夕食。連子鯛の塩焼きは、皮目がぱりりと焼け、身は驚くほどふっくらとしていた。
沈黙の中で箸を動かす。愛は、せっかくの鯛を義務のように口に運んでいる。
「……愛」
「なに」
「その苺、洗いなさい。デザートにするわ」
愛が顔を上げる。その瞳に、微かな、だが確かな期待が宿る。
「……いいの?」
「一粒あたりの単価を計算したら、私の血圧が上がりそうだから、もう考えないことにしたわ。その代わり、半分は明日の朝食に回すこと。いいわね」
苺を噛み締めた瞬間、暴力的なまでの甘さと酸味が、律子の防衛線を軽々と突破した。
美味しい、と思ってしまった。
三〇〇円の贅沢が、二九八円の鯛で守ろうとした「正しさ」を、鮮やかに塗り替えていく。
「……ねえ、愛。来月から、食費を二万円、加算しましょう」
「えっ!? 天変地異? それとも、大きな案件でも勝ったの?」
「いいえ。今日、法廷で確信したの。どれほど完璧な書面を用意しても、人の寿命や心までは支配できない。なら、私たちの『城壁』の中に、もう少しだけ花を植えてもいいんじゃないかって。……二万円分の、彩りを」
愛が、吹き出した。
「あはは! りっちゃん、今の、絶対かっこいいと思って言ったでしょ! 弁護士のくせに、言い回しが古風なんだから!」
「……うるさいわ。水炊き。来月は、一番いい鶏肉で、家で水炊きをするわよ」
手帳の隅に「+20,000」と書き込む律子の指先は、さっきよりも少しだけ温かかった。
だが、その時。
玄関のインターホンが、不気味なほど長く、静寂を切り裂いて鳴り響いた。
午後九時。訪ねてくる心当たりは、二人には、ない。




