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2-2:約束のテロワール

王都を出てから、五日が経過していた。

公爵家の頑丈な馬車でさえ、サスペンションが軋むほどの悪路だ。もはや「道」と呼べるかも怪しい獣道に近い坂を登りきったところで、馬車はついに速度を緩めた。

「お嬢様、あれに見えますのが、クライフェルト北の館でございます」

セバスの指差す先を、エリアーナは窓から見つめた。

そこにあったのは、王都の貴族たちが想像する「辺境」そのものの景色だった。

麓に、小さな村が点在している。全部で三十戸あるかないか。家々は石と粗末な木材で組まれ、煙突から上がる煙も細く、か細い。まるで、この厳しい大地に貼り付けられた、乾いたこけのようだ。

村の周囲に広がる畑は、お世辞にも豊かとは言えず、そのほとんどが痩せた土地でも育つカブや芋、あるいは雑穀を植えるために、無理やり開墾されたものらしかった。

馬車が村の近くを通りがかると、痩せた土地を耕していた数人の村人が、驚いたように顔を上げ、クライフェルト家の紋章(獅子と剣)を見て、慌てて道端にひれ伏した。彼らの顔は、喜びではなく、新たな領主(あるいは徴税官)の到来を「畏れる」色に満ちていた。

(……痩せた土地、痩せた人々。王都の農学者が見れば、匙を投げるわね。でも、彼らが植えているのはカブと芋……この土地の『本当の価値』に気づかず、ただ王都の真似事をしようとして失敗している)

エリアーナの専門家としての目が、瞬時にこの土地の問題点を見抜いていた。

(この火山灰土壌は、芋や小麦のような『デンプン』を蓄える作物には向かない。保水性が低すぎて、根が浅い作物はすぐに枯れてしまう。彼らは、この土地の『声』を聞いていないわ)

そして、その村を見下す小高い丘の上に、「館」はあった。

「……まあ」

思わず、感嘆の声が漏れた。

それは、荒涼とした風景の中で、唯一、圧倒的な存在感を放つ場所だった。

「ひどい場所だ、とお思いでしょうな。旦那様(公爵)も、なぜお嬢様がこのような場所を望まれたのかと……。あそこは、百年以上前に、この地の鉱山を管理するために建てられた砦のような館。もはや、住む場所としては……」

セバスが、エリアーナが落胆したと勘違いし、申し訳なさそうに呟く。

「公爵家の恥とまで言われた場所でございます。こんな場所へお嬢様をお連れせねばならなかったこのセバスの不甲斐なさ、お許しください……。旦那様には、即刻、王都にお戻り願うよう、私から……」

「いいえ、セバス。逆よ」

エリアーナの目は、麓の哀れな村ではなく、その地形全体に釘付けになっていた。

「見て、セバス。あの丘の『向き』を」

「向き、でございますか? ……ただ、南を向いている、それだけでございますが」

「そう! それだけ、ではないわ。あの館は、緩やかな『南向きの斜面』に建てられている。太陽の光を一日中、遮るものなく浴び続ける、最高の立地だわ」

セバスは、主の言葉を理解できず、ただ額の汗を拭うばかりだった。

「南向き……。ですが、それはただ日当たりが良いというだけで」

「違うわ、セバス! 前世の知識がそう言っている。ブルゴーニュの特級畑グラン・クリュも、イタリアの火山麓エトナの畑も、皆、この完璧な南東向きの斜面にあった。朝の光をいち早く浴びることで、夜の間に冷えた果実を露から守り、そして何より、午前中の効率的な光合成を促す。あの館のすぐ下の土地こそ、私の『特級畑』になるわ!」

「そして、この標高」

吹き抜ける風が、王都とは比較にならないほど冷涼で、乾燥している。

(日中と夜間の、寒暖差)

セバスが馬車の中で震えるほど冷たいその空気こそ、エリアーナにとっては歓喜の要素だった。

日中は、遮るもののない太陽が、火山灰土壌を温める。だが、夜になれば、背後にそびえる山々から吹き下ろす冷気が、一気にこの地を冷やすだろう。

「この温度差こそが、果実が糖度を蓄えるために必要な、絶対条件なのよ! 植物は夜の寒さから身を守るために、昼間に得たデンプンを『糖』に変える。その防衛本能が、天然の『甘味』の正体。王都の温暖な気候では、植物が『本気』を出す必要がない。だから、水っぽく、味の薄い果実しかできないのよ」

エリアーナは、まるで初めての恋人を見つめるかのように、その荒涼とした大地を愛おしそうに見つめた。

「王都の者たちは、何も分かっていなかったのね。作物が育たない? いいえ、彼らは『育てるべき作物』を間違えていただけ」

この過酷な環境テロワールでこそ、極上の味へと昇華されるもの――果実だ。

「セバス、急いで。私の『アトリエ』へ!」

セバスは、主の熱狂的な瞳を見て、もはや反論する気力も失っていた。

「ア、アトリエ、でございますか……。かしこまりました。お嬢様」

老執事の困惑をよそに、エリアーナの心は、すでに丘の上の館へと飛んでいた。

馬車は、最後の坂道を、ゆっくりと、しかし力強く登り始めた。


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