表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/55

第二章:起動 2-1:北へ向かう馬車

王都の城門グラン・ポルトをくぐり抜けた瞬間、エリアーナは重い馬車の窓を、力の限り全開にさせた。

ゴト、ゴト、と車輪が敷石の継ぎ目を越える無骨な振動。パーティー会場の熱気とむせ返るような香水の匂いとは無縁の、ひやりとした夜気が、汗ばんだドレスの襟元を撫でていく。

「お嬢様、窓を閉めなくてよろしいのですか? 夜風は体に障ります。まして、そのように薄着で……。せめて、この毛布を」

御者台のセバスが、馬の手綱をさばきながら、背後から心配そうな声をかけてくる。

彼は、エリアーナが幼い頃から仕える老執事だ。公爵邸の厨房でエリアーナが夜を明かすたびに、王妃教育の教師たちに見つからないよう「お嬢様は自室で瞑想中です」と嘘をつき続け、温かいミルクと毛布を運び続けた、唯一の共犯者とも言える存在だった。

「いいえ、セバス。この風が、今の私には必要なの。息が、できる気がするわ」

エリアーナは深く息を吸い込み、目を閉じた。

王都の空気は、どこか湿り気を帯びている。人々の熱気と、馬車の往来が巻き上げる埃っぽさ、そして運河の淀んだ匂いが混じり合い、常に何かにまとわりつかれているような息苦しさがあった。

(あの場所では、五感のすべてが鈍る)

前世のパティシエール、天宮茜にとって、嗅覚と味覚は命そのものだった。季節の変わり目を「香り」で察知し、素材の僅かな「酸味」の違いを聞き分けた。

だが、エリアーナとして生きたこの十六年間は、その感覚を意図的に「閉じて」生きる日々だった。

(『エリアーナ様、淑女たるもの、厨房の匂いなど身に纏ってはなりません』)

(『エリアーナ様、そのように素材をまじまじと見つめるのは、はしたのうございます』)

王妃教育の教師たちの、甲高い声が蘇る。

そして何より苦痛だったのは、王宮のまずい菓子を「美味しい」と偽ることだった。

(あの生焼けのタルトを『素晴らしい焼き色ですわ』と褒め、砂糖の塊を『繊細なお味ですこと』と微笑まねばならなかった。私の舌が、私の感覚が、毎日『嘘つき』だと私を責めていたわ)

馬車に揺られて三日目。道はすでに王国の主要街道を外れ、荒れた山道に入っていた。

窓から見える景色は、豊かな黄金色の穀倉地帯から、次第に岩肌の目立つ、ごつごつとした針葉樹の森へと変わっていく。

「……空気が、澄んでいる」

空気が「冷たい」のではない。「澄んでいる」のだ。

王都では感じられなかった、針葉樹の樹脂のツンとした香り、湿った土の匂い、そして何より、水分の少ない「乾いた」風の匂い。

夜明け前、窓枠に降りた霜が、朝日でキラキラと輝く。日中は強い日差しが降り注ぐが、風は乾いていて涼しい。

「セバス、止まって」

「はい?」

「少し、土を触ってみたいわ」

「お嬢様? このような場所で、一体何を……。獣が出たら危険です。それに、そのドレスでは」

「五分だけ。お願い」

エリアーナは、セバスの返事を待たずに馬車を降りた。

パーティー用の薄絹のドレスの裾が、泥と朝露で汚れようと知ったことではない。そんなもの、王都に捨ててきた「エリアーナ」という仮面と同じだ。

彼女は道端の、草もまばらにしか生えていない地面に膝をつき、その土をひとつまみ、指先で確かめる。

(……間違いない)

サラサラとした、黒っぽい土。指先でこすり合わせると、微かな硫黄の匂いと、ザラリとした感触が伝わってくる。

火山灰を多く含んだ、典型的な水はけの良い土壌だ。

「不毛の地」と呼ばれる所以。作物を育てるには、保水性が低すぎるのだ。王都の農学者なら、これを見た瞬間に「Dランク(栽培不適)」の判を押すだろう。

だが。

(だからこそ、いい)

前世の記憶が蘇る。

最高のワイン用ブドウ(ヴィティス・ヴィニフェラ)が育つのは、決まって痩せた土地だった。イタリアのシチリア、エトナ火山の麓の畑も、まさにこんな土壌だった。

植物は、水や養分を求めて、必死に根を深く、深くへと伸ばしていく。そのストレスこそが、果実に凝縮された「味」を生み出すのだ。

(王都の連中は、甘やかされた土地で、水っぽい野菜しか作れない。彼らは植物に『楽』をさせすぎている。だが、ここは違う。この土地は、植物に『戦え』と命じているわ)

「ふふ……」

「お嬢様? 何か、面白いものでも」

怪訝な顔で周囲を警戒していたセバスが、土を握りしめて笑う主を見て、さらに困惑した顔になる。

「いいえ、セバス。面白い、ではなくて……『愛おしい』のよ、この土が」

「は、はぁ……土が、愛おしい、でございますか」

「そうよ。この土は、私の夢を叶えてくれる『宝』そのものだわ。さあ、行きましょう。最高の『予感』がしているだけよ」

エリアーナは土を払い、ドレスの裾で(セバスが悲鳴を上げそうになるのも構わず)手を拭うと、再び馬車に乗り込んだ。

その横顔は、王都にいた頃の「地味な令嬢」の仮面を完全に脱ぎ捨て、未知の食材テロワールを前にした探求者のそれへと変わっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ