第二章:起動 2-1:北へ向かう馬車
王都の城門をくぐり抜けた瞬間、エリアーナは重い馬車の窓を、力の限り全開にさせた。
ゴト、ゴト、と車輪が敷石の継ぎ目を越える無骨な振動。パーティー会場の熱気とむせ返るような香水の匂いとは無縁の、ひやりとした夜気が、汗ばんだドレスの襟元を撫でていく。
「お嬢様、窓を閉めなくてよろしいのですか? 夜風は体に障ります。まして、そのように薄着で……。せめて、この毛布を」
御者台のセバスが、馬の手綱をさばきながら、背後から心配そうな声をかけてくる。
彼は、エリアーナが幼い頃から仕える老執事だ。公爵邸の厨房でエリアーナが夜を明かすたびに、王妃教育の教師たちに見つからないよう「お嬢様は自室で瞑想中です」と嘘をつき続け、温かいミルクと毛布を運び続けた、唯一の共犯者とも言える存在だった。
「いいえ、セバス。この風が、今の私には必要なの。息が、できる気がするわ」
エリアーナは深く息を吸い込み、目を閉じた。
王都の空気は、どこか湿り気を帯びている。人々の熱気と、馬車の往来が巻き上げる埃っぽさ、そして運河の淀んだ匂いが混じり合い、常に何かにまとわりつかれているような息苦しさがあった。
(あの場所では、五感のすべてが鈍る)
前世のパティシエール、天宮茜にとって、嗅覚と味覚は命そのものだった。季節の変わり目を「香り」で察知し、素材の僅かな「酸味」の違いを聞き分けた。
だが、エリアーナとして生きたこの十六年間は、その感覚を意図的に「閉じて」生きる日々だった。
(『エリアーナ様、淑女たるもの、厨房の匂いなど身に纏ってはなりません』)
(『エリアーナ様、そのように素材をまじまじと見つめるのは、はしたのうございます』)
王妃教育の教師たちの、甲高い声が蘇る。
そして何より苦痛だったのは、王宮のまずい菓子を「美味しい」と偽ることだった。
(あの生焼けのタルトを『素晴らしい焼き色ですわ』と褒め、砂糖の塊を『繊細なお味ですこと』と微笑まねばならなかった。私の舌が、私の感覚が、毎日『嘘つき』だと私を責めていたわ)
馬車に揺られて三日目。道はすでに王国の主要街道を外れ、荒れた山道に入っていた。
窓から見える景色は、豊かな黄金色の穀倉地帯から、次第に岩肌の目立つ、ごつごつとした針葉樹の森へと変わっていく。
「……空気が、澄んでいる」
空気が「冷たい」のではない。「澄んでいる」のだ。
王都では感じられなかった、針葉樹の樹脂のツンとした香り、湿った土の匂い、そして何より、水分の少ない「乾いた」風の匂い。
夜明け前、窓枠に降りた霜が、朝日でキラキラと輝く。日中は強い日差しが降り注ぐが、風は乾いていて涼しい。
「セバス、止まって」
「はい?」
「少し、土を触ってみたいわ」
「お嬢様? このような場所で、一体何を……。獣が出たら危険です。それに、そのドレスでは」
「五分だけ。お願い」
エリアーナは、セバスの返事を待たずに馬車を降りた。
パーティー用の薄絹のドレスの裾が、泥と朝露で汚れようと知ったことではない。そんなもの、王都に捨ててきた「エリアーナ」という仮面と同じだ。
彼女は道端の、草もまばらにしか生えていない地面に膝をつき、その土をひとつまみ、指先で確かめる。
(……間違いない)
サラサラとした、黒っぽい土。指先でこすり合わせると、微かな硫黄の匂いと、ザラリとした感触が伝わってくる。
火山灰を多く含んだ、典型的な水はけの良い土壌だ。
「不毛の地」と呼ばれる所以。作物を育てるには、保水性が低すぎるのだ。王都の農学者なら、これを見た瞬間に「Dランク(栽培不適)」の判を押すだろう。
だが。
(だからこそ、いい)
前世の記憶が蘇る。
最高のワイン用ブドウ(ヴィティス・ヴィニフェラ)が育つのは、決まって痩せた土地だった。イタリアのシチリア、エトナ火山の麓の畑も、まさにこんな土壌だった。
植物は、水や養分を求めて、必死に根を深く、深くへと伸ばしていく。そのストレスこそが、果実に凝縮された「味」を生み出すのだ。
(王都の連中は、甘やかされた土地で、水っぽい野菜しか作れない。彼らは植物に『楽』をさせすぎている。だが、ここは違う。この土地は、植物に『戦え』と命じているわ)
「ふふ……」
「お嬢様? 何か、面白いものでも」
怪訝な顔で周囲を警戒していたセバスが、土を握りしめて笑う主を見て、さらに困惑した顔になる。
「いいえ、セバス。面白い、ではなくて……『愛おしい』のよ、この土が」
「は、はぁ……土が、愛おしい、でございますか」
「そうよ。この土は、私の夢を叶えてくれる『宝』そのものだわ。さあ、行きましょう。最高の『予感』がしているだけよ」
エリアーナは土を払い、ドレスの裾で(セバスが悲鳴を上げそうになるのも構わず)手を拭うと、再び馬車に乗り込んだ。
その横顔は、王都にいた頃の「地味な令嬢」の仮面を完全に脱ぎ捨て、未知の食材を前にした探求者のそれへと変わっていた。




